埼玉県の中世城郭 



 

ときがわ町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、他の資料(地籍図や写真等)を掲載する場合がある。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 小倉(おぐら) 『物見山砦??』

小倉城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください




         

凄いなぁ本当に。脱帽です。  2018/04/20

 
 小倉城は槻川の蛇行地点に作られている。
 山の上の遺構は後北条によって改築されたと思われるが、ここも後北条時代の遺物が出てこない。
 (2005年 玉川村教育委員会 第一次発掘調査報告書)
 ・・・・ということで、その時代の前の上杉氏の城では??ということで、報告書ではまとめられている。
 杉山城と全くおなじシチュエーションである。
 しかし、経験から管理人は後北条の改修で良いと考えている。
 

 小倉城は、今でも曲輪、竪堀、堀切、枡形虎口など、良好な姿で残っている。
 だが、
特記すべきは石垣であろう。
 私が高校くらいのときは、関東では石垣の城は極少と言われていたが、
 後北条の息のかかった城だけは、当時から石垣を使用していることが知られていた。
 鉢形城、八王子、花園城 そしてこの小倉城が代表例である。
 昔は後北条氏の石垣はその残存状況から、土留め程度のものと思われていた。
 しかし、最近の発掘調査で結構立派なものだったということがわかってきた。
 八王子城や鉢形城は石垣の復元をして、”往時の姿” と言うことで公開している。
 
                   しかし、私はどーしても好きになれない
 
 ちょっと立派過ぎるのである。
 八王子城の御主殿も、鉢形城の段々石垣土塁も、胡散臭い。
 綺麗過ぎて、いかにも作った感が有り有り。
 群馬の太田金山城のようだ。
 一般受けする事は理解できる。
 でも、果たしてこの姿が本当に昔のものなのだろうか???
 
 小倉城でも発掘調査が実施された。
 土の下からたくさんの石垣遺構が出てきている。
 ただここは、八王子や鉢形と違い、発掘で出てきた姿そのままに、みんなが見学できるようにしている。
                     そこが素晴らしい
 無理な復元などせず、ほぼほぼ出てきたとおり保存しているのだ。
 それだけ、残存状況も良かったということであろうが。。。。
 
 石垣はやがて孕み、崩れる。
 私は、これも歴史・運命だと思っている。
 それを元に戻す行為は、歴史に逆らっているのでは?といつも思ってしまう。
 そう言うと、『復元される事も城の歴史になっていくんですよ!』という読者も居よう。
 でも確実に復元は、往時からのものでは無い。
 下手をすると、その復元が、往時の姿から大きくはずれてしまっている場合もあるだろう。
 厄介なのは、その復元が、正しいか、誤っているのか誰も確かめようが無いことである。
 そんな復元物を一般の人が見たら、
            『あーこれが、群馬太田金山城なんだぁー』 と納得してしまうだろう。(※太田金山の復元が大嫌いで、イヤミを込めて言ってます)
 
 繰り返しになるが、私は綺麗な石垣よりも、孕んでいたり、崩れてたりする石垣が好きだ。
 草や土に埋もれ、一部しか見えていない石垣が好きだ。
 苔むして誰も見向きもしない石垣が好きだ。
                無理な修理や復元はせず、そのままにして欲しい。
 現状が危険な状態なら、それを回避する処置だけすれば良いのだ。
 
  
 

    【解説】 話が少し逸れたが、ここからは小倉城の遺構を解説していこう。

 
◆駐車場所

入口は狭いが、大福寺の境内横が本城の駐車場として指定されている。
発掘調査報告書では、大福寺の前が ”堀跡” とされているが
管理人は城下の方向はこの大福寺サイドではないと考えている。
それについては後ほど解説したい。













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◆主郭



当城で一番広い空間であるが、東側に一段高いエリアがある。
内部が上下に2分されていたようである。



 






主郭内通路。

2分された主郭内を通るルート。
空堀兼通路となっている。




 










本丸東虎口。


土塁には石が貼られており、主郭まわりも、かなり石が貼られていた事が想像できる。
虎口には横矢が効いている。
両横矢と思われる。




 
 

 
 左図のように、主郭には両横矢が北面の虎口にも備え付けてある。








主郭下東枡形

綺麗な枡形門である。
門を形成するために、岩盤を削っている。













主郭南虎口1

現地では、この虎口を後世の造作としている。
そのため、出入りを禁止しているが、果たしてそうであろうか??



 





 
管理人は、ここも 虎口として 『良い』 と考えている。

理由は、 登りきった所の土塁は太く、矢倉台的な施設があったと考えられる事。
また、左の
赤ラインのような導入路が考えられるからだ。
堀に囲まれて幅を規制され、石垣の段で一折れさせられる導入路は、ちっともおかしくない。
逆に良く考えられている。
・・・も直登ルートとして考えられるが、斜面が急なのと、堀と石垣が有効にならない)






主郭南虎口2

石垣
が矢倉台頂上付近に貼られている。
全面石垣であった可能性もあるのではないだろうか



 






主郭&郭3間 岩盤堀切

見事な岩盤くり抜きである。
この切削は、さぞかし大変だったろう。


  






 
壁面が直角なのは縄張り図泣かせの遺構である。
それは縄張り図がケバ方式の由縁である。
(新・栃木県の中世城郭内 描き方 に理由記載)














  ◆マウスを乗せよう

郭3と主郭を繋ぐ当所は木橋だったと考えられる。
土塁を盛って、郭3側の高さを主郭と合わせているのが証拠だ。




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   ◆郭2



主郭と郭2間の堀
きっちりとした堀切だったと考えられるが、
残念なことに、郭2側の東壁は後世に崩されてしまったようだ。
図では赤矢印(左写真)は、
その堀切端の二重竪堀上の石垣or岩盤である。


  





2の丸南虎口


郭2へは平入りの虎口であった。









郭2下虎口

ここだけ曲輪がえぐられているのは・・・・・








  
  ・・・右図の
赤丸●範囲内のように、
  導入路をクランク(食い違い)させるためである。
  現在、郭2の土が流れてしまっているが、
  昔はキッチリ直角に曲げられていたと考えられる。
  このように郭2周辺は、細かな虎口の配慮が多いので、
  周辺の虎口の導入路を描いてみた。(図内
赤花マーク

  全てが素直に直進できないように工夫されている。









郭2郭下のクランク虎口


 



  この虎口も非常に凝っている。
  右図の花マークで、導入路をクランクさせている。
  
  まず
竪堀に沿って敵兵を登らせる。
  ここには左側面から城内から攻撃できるように、横矢が掛かっている。青矢印
  登り切り、左折する。
  曲がった瞬間、上方向から攻撃を受ける。青矢印
  そして、右折。
  郭2に向かって登っていくが、常に城内から攻められるようになっている。
  クランクはさらに連続する。











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  ◆郭3




郭3は石垣で囲まれている。
縄張り図は発掘で露出した石垣をそのまま表現している。
かつてこの城に来た時は、このような石垣に気づきもしなかった。。
















石は、
このあたりで良く取れる緑泥石片岩の石垣である。
(発掘報告書では結晶片岩となっている)
薄い板状に割れてしまう石なので、積み上げても高さが稼げない
外観からお分かりになると思うが、高さを稼ぐのに大量の石が必要となる。
物凄い根気の要る石積み作業であったろう
小倉城の石垣の石は、大きさも重さも、人一人が持ち運べるものである。
そのような大きさの石に揃え、石積みを行ったのだろう。























石垣に囲まれた門である。
ここも曲輪の端っこを門にしていることから、所謂”比企型虎口”という事になるんだろう。







郭3には石垣張り出し?部分がある。
木の根で飛び出した可能性も否めないが、管理人は以下のように表現してみた。
























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  ◆郭4


入口

堀切の土塁を一部切り崩し、虎口にしているが、
後世の改変のような胡散臭さも感じる。

ただ、郭4と郭2の連絡路がそれ以外認められないので、
やはりここが虎口だったのだろう。






郭4竪堀
郭2と郭4は大きな堀切りで分断されている。









郭4虎口は大きな桝形門である。
そこを出た先は遺構は無い。

左写真は門の先の峠道。







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 ◆城下について



前述したが、第一次発掘調査書には麓の大福寺付近が城下のように書かれている。
しかし、果たしてそうであろうか?

管理人は、小倉城の
城下は大福寺の北側と南側に集中していたと考えたい。

その理由を
1.国土地理院の地形図から
2.
管理人の縄張り図
から解説したい。




   ◆電子国土より

1.
まず見ていただきたいのが左の国土地理院の地図。
小倉城の山麓で、現在も住宅が多い場所が分かる。
言わずもがな
青い網掛けの①と②である。

城下町というのは、現代でも位置が変わらない事が非常に多い。
つまり、大福寺周辺では無いのである。







 

 


2.
次に管理人の縄張り図を見ていただきたい。
簡単に分かるのが
A尾根に,堀切、竪堀などの防御設備が極端に少ない事である。
これは、このA尾根が城下につながっていた証拠である。

の谷は、山の谷間も城として取り入れていることから、
この道の先
も城下であることが分かる。

つまり、
の尾根先、の谷先が、城下に繋がっていたと考えたい。


よって、小倉城の重要な城下は大福寺近辺ではなく

①、②が小倉城の城下(根小屋)と考えている。

このことから、大福寺へ直接降りる道は、後世に作られた可能性も否めない。






           
 長々と書いてしまったが、ここ小倉城は、遺構の状況やその規模含め、大変優れているのは間違いない。
          読者には、是非訪れていただきたい1城である。

        

                                      (小倉城コンプリート)
 【既存縄張り図の評価】  管見の限り、既存縄張り図での見落としは少ない



物見山砦??  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

ダメでしょ、ココ!  2018/04/20(通しNO-埼玉2)

 埼玉県  ときがわ町  物見山砦(?)
 日本城郭体系(以下、体系)に ”城” として掲載されているが、

               管理人は 
城ではない! と判断する。

 城郭体系では、何故か収録位置図に物見山砦(?)がプロットされていない。
 このため、城位置を探るには、体系の解説文そのものを解読するしかない。

 そこには、
 ①砦は物見山と青山城の中間にある。
 ②砦の東方、物見山までの距離が
2000mある。

 と書いてあるが、物見山と青山城の峯続きは東西に2000mも続かない。
 よって、文章からは位置が特定できないのだ。

 現在は文中の ”2000m” を ”200m” の誤記と考えて、
 物見山西方の小ピーク頂上、標高260m付近を物見山砦の比定地と考えられているようだ。
 実際に現地に行ってみると、どなたかが ”物見山砦” のプレートを設置している。
 よって管理人は、この場所の縄張り図化を試みてみた。

  
 ◆アプリ YAMAPより
 
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 物見山砦に行くには、槻川沿いの割谷集落からアプローチ。
 ここには割谷板碑製作遺跡がある。

 駐車場があるので、ここに駐車。












 林道は荒れていて、通行止め。
 よって、車の通行もなく安心して登れる

 林道終点からは山道となるが、道標があるので、迷わず登れる。
            



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 体系では物見山砦には6段の切岸があるという。
 確かに登山道にそって歩けば、段々が確認できる。
 これを ”切岸” と判断したのだろう。
 しかし、登山道に沿った切岸は、両脇ですぐに消えてなくなってしまう。
 埋まっている可能性も否めないが、おそらく違う。
  
 
 また、それらに伴う堀も土塁もない。
 切岸頂点である山の最頂部もダラっとし過ぎである。
 城として、どこをどう守りたいのか、サッパリわからない。
 人工的な段だとしても、城としての意図を感じられない。
 
 ところで山を歩くと良くわかるが、
 このような段は、緩い斜面に木が横一列に並んで生えた場合、
 
木の根元周りに土が集まると自然に形成される。
 また木が倒れ、横に伏せてあると、やはりこのように朽ちて段になっている。
 結局、これらの段はそのような自然発生的ものではないだろうか?
 
 いずれにしろ城としての物でないと見た。
 
 
◆写真ではわかりづらいが、山道に沿って段々が確認できる


                 ◆現地調査図



 



よって、管理人は ”誤認” と判断した。

当ホームページでは、掲載を 情報調査 レベルにしたいくらいだが、城のバイブル城郭大系に敬意を評し、本編部に寄せておく。
 
 ここが城ではないとすると、いったい物見山砦はどこにあるのか??
 ・・・・まあ、あるとすればの話だが・・・















ちなみに西方、物見山286m自体にも、もちろん遺構は全くありません。





だれ?こんな根も葉もない看板つけた人?
















                                     (コンプリート)
 【既存縄張り図の評価】  
                話にならない

                ※ここの縄張り図を掲載しているのは日本城郭体系5(新人物往来)のみ


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