栃木県の中世城郭
 



 

鹿沼市 2024 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

  上永野龍ヶ谷城
   北村南城




上永野龍ヶ谷城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

谷の拠点城郭か?
   ・・・いや、ちと違う。。
  2024/12/10 

粟野町の図書館(粟野歴史民俗資料館)に立ち寄って、昔の粟野町史を見直してみた。
すると、当ホームページと城の呼び名が異なっていたり、調査していない城も見受けられる。
改めて、今後見直していきたいと思うが、
今回の上永野龍ヶ谷城は、その中で管理人が調査できていない城の一つである。

町史には、永野村の郷土誌が紹介されていて、(※かみ砕いて書いており、正確には原文と異なります)
上永野龍ヶ谷古城は、
「上永野の標高350mの
龍貝山」にあって、・・・・」
つらつらと城主の名前が書いてあり、
「天正年間には高瀬・大久保の諸族代わる代わる居城せしと雖も、其事蹟伝わるところ無し」
また、粟野古記録に
「天正10年9月9日 長野両郷、日光神領政所 
佐野修理大夫藤原宗綱公本領主にて大宮大明神造立」
と書いてあることから、
佐野氏の作った城であろうと言うことが記載されている。


■図はマピオン  
 
城の現住所は、町史の通り ”上永野” である。
また、リュウガイ城は近隣にもあるので、
町史にしたがって ”
上永野龍ヶ谷(古)城” とした。

町史では 「350mの龍貝山」 とあるが、
ここには標高290mほどしかない。
別の山か?間違いか?
しかし、CS図で当地には、シッカリとした陰影が確認できる。

近隣の山々にはCS図を見ても、城は無さそうなので
一旦、ココを町史の言う龍ヶ谷城と判断した。

■図はCS図
  アプローチなのであるが、本当に苦労した。
まず、城の麓まで来ている林道は 「進入禁止」。
伐採中!ということである。(左写真)
実際、作業をされているようなので、仕方なく撤退。

近くの工場の敷地は許可を得ないとマズイ。
(以前、鶴巻城調査で駐車させてもらったが、
お仕事中で声かけづらい)

近くの田んぼ道は道幅狭く駐車できず。

結局、遠くの場所に駐車し、あとは、歩くことにした。
   目指すは川沿いの山。
写真中央のトンガリ山が城跡のはずだ。
  1kmほど歩き、城跡の麓に着いた。
伐採中の森林組合の方にお断りして、山に入る事にした。
このイノシシ檻の先の尾根だ。

森林組合(おそらく地元の方だと思うが)
の複数人の方にお話を伺う。

「この山が城跡だと聞いてきました」
すると、みなさん一声。
「なんか場所間違ってません?」
だ。

やはり、あまりここが城であることは、
地元の方にも知られていない?ようだな。。。
   
山へは、東の尾根から取り付く。
シカが多いのだろうか、シカネットの嵐だ。

この山の麓から
山頂に向かう作業道が伸びている。
ただ、途中で山を逸れていくので、
尾根に取り付いた方が良いだろう。

■図はYAMAP
   
一本目の堀切だ。
写真だと、イマイチだけど、シッカリ堀切である。

さぁ、調査開始だ!

■図はYAMAP
【現地調査縄張り図】 



 
写真は2番目の堀切。
写真左手は土塁となっている。

土塁の南側は解放されていて、
通路は土塁の南側をとおり、
切岸を登る形だったのではなかろうか?
土塁は視界を遮る蔀の様な役目か?

土塁からの木橋も考えられる。
だが、なぜ南側が解放しているのかが、わからない気もする。


 
切岸を上がると、
ちょっと凝った虎口(通路)に出る。
遺構は薄いが、わざと道を曲げている。
九十九折れ状に、曲折させているのだ。



   
主郭西側の堀切。
綺麗な堀切だ。

このようにこの城は
堀切はハッキリしているが、
曲輪縁辺部は全くハッキリせず、
写真にならない。
  二の郭の堀切を、城外方向から撮影。。
土塁を伴うシッカリとした堀切だ。
だけど、二の郭内は、ほぼ自然地形に近い。
  写真が旨く撮れなかったので、図で解説。

二の郭には、面白い虎口がある。

左図で示したように、堀底から延びる道を
木橋で渡らせ、二の郭にあげていたようだ。
敵はその間、ずっと二の郭からの横矢攻撃である。
考察 
まず最初に言いたいのは、この城は結構な規模の城であること。
近隣には、東南1kmに ”鶴巻城” があるが、ここは単郭の城で極めて小規模。
龍ヶ谷は城域から見て、結構な収容人の城だ。
よって、この谷の拠点城郭の様に見えた。

ただ、曲輪取りは非常に甘く、極めて手抜き感が否めない。
おまけに城の前面が永野川である。
谷の住民、田畑を守るのであれば、川を隔てるだろうか?
また、ショボい曲輪に対して、人の出入りする虎口に対しては、かなりテクニカルなのが気になる。
よって、谷を守る地域の拠点というよりは、永野川を堀代わりとした、戦闘的な城に筆者には見える。

越路峠を越えれば、口粟野の城郭群の谷に出る。
この辺りは佐野、皆野、宇都宮、戦闘地区でもあったようだ。
明言はできないが、地誌の ”佐野氏の築城” は置いておくとして、
縄張りからは、龍ヶ谷城は大きな戦いに備えた大きな陣城であった可能性があると思っている。
その時の陣城とも想像できるが、果たしてどうなのだろうか・・・・7?




北村南城sk(仮称)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

新城確認!  えっ?なんでこんなとこに・・・  2024/10/13 
 

当ホームページのお客様フェニェクーティさんから教わった場所である。
思川を北村城(仮称)と隔てた山の中腹に城があるという。
位置関係から北村城と関連があるのは間違いない

はたしてどんな城なのであろう?


  
 
城には、送電線の点検路(南いわき幹線288号)を利用する。

  点検路なので非常に整備されており、道に迷うことは無い。
   点検路の490m頂部に着いた。
シカネットに囲まれた場所だ。
城へは、ここから尾根を少し下ることになる。
◆図はYAMAPデーターより
【現地調査縄張り図】 

   図の位置に堀切発見!
情報の通りだ。
写真ではわかりづらいのだが、
結構な高さがある。

◆図はYAMAPデータより
 
堀切を渡ると写真の高まりがあった。
どう見ても土塁である。
南に続く尾根方向の方が高いため、
主郭内部側に土盛りをしているようだ



   
土塁を東から西方向に見る。
 
堀切は両端で竪堀になる。
ただし、あまり顕著ではなく、
現状では自然に消えてしまうような感じだ。

堀切は単純に南の峰続きを意識して掘られている
  主郭内部は正直自然地形である。
東側斜面に竪堀状の溝が確認できるが、
竪堀としては機能していない。
なんの役にもたたなそうなので、
後世の改変と考えている
  この主郭平場からは、木々が無ければ
下方に15号線が良く見えただろう。

この広さならかなりの人が常駐可能だ。
陣城のような感じも受けるが
この地でそのような戦闘があったかどうか?、当方にはわからない。
◆図はYAMAPデーターより  城の遺構解説はこれまでである。

全行程のログが左。
大した山登りでもないが、今シーズン2回目なので
なまっていた体にはきつかった。


城跡見学の後に食べた「古里そば」の天ぷらそば。
心にしみる。
癒される
 
 【考察】

ここで、1,北村城と2,北村南城が何を守っているのか考えてみた。

城を築くということは、何かを守るという事である。
両城とも、かなり川の上流であることから、思川の水運を当てにしたものではないと判断できる。

となると、一番考えられる事は、北村城、北村南城に挟まれた道(現・県道15号)の往来監視だと判断できる。
つまり、県道15号線は中世の時代も街道筋であり、
ここを往来する人々の監視を、1,2,の城で守っていた・・ということである。

北村城と北村南城は、街道監視のためにたてられたのだろう。

両城は、思川の最も山深い所に位置している。
ここから南東に進むと、田園が広がり、粕尾城、大塚城に代表される粟野谷の城郭群落に達する。(下図参照)


『』

推論の域を出ないが、北村城周辺で何か戦闘があったのかもしれない。
敵が西から攻め込むことを想定し、この両城が築かれた可能性がある。
北村南城が、堀切一本の暫定的で、陣城のように見えるのも、この影響ではなかろうか?

また、可能性は少ないと思っているが、
両城が同時期に存在しなかった可能性もある。
両城の堀切の規模があまりにも違いすぎるからだ。

もう一つ。
この城は、粟野谷の城郭群と切り離す考え方である。
確かに、これらの城は城郭群からポツンと離れている。
この城の西に「発光路」という地名の場所がある。
ここは、修験の場所らしい。
この修験者たちの城、とも考えられる(クリヤさん、北村城の項で推察)

いずれにしても筆者の勉強調査不足で、史実や伝承、文書とは結び付けられていない。
しかし、縄張り、位置関係からは以上のような推論ができるのではなかろうか。

今のところの私見としては、粟野谷の城郭群と結び付けている。

『北村、北村南両城は、粟野谷の城々の西限境として築かれ、主な役責は街道筋の監視を、思川の両岸からおこなっていた』
と考えている