栃木県の中世城郭
 



 

鹿沼市 2024 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



北村南城sk(仮称)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

新城確認!  えっ?なんでこんなとこに・・・  2024/10/13 
 

当ホームページのお客様フェニェクーティさんから教わった場所である。
思川を北村城(仮称)と隔てた山の中腹に城があるという。
位置関係から北村城と関連があるのは間違いない

はたしてどんな城なのであろう?


  
 
城には、送電線の点検路(南いわき幹線288号)を利用する。

  点検路なので非常に整備されており、道に迷うことは無い。
   点検路の●m頂部に着いた。
シカネットに囲まれた場所だ。
城へは、ここから尾根を少し下ることになる。
◆図はYAMAPデーターより
【現地調査縄張り図】 

   図の位置に堀切発見!
情報の通りだ。
写真ではわかりづらいのだが、
結構な高さがある。

◆図はYAMAPデータより
 
堀切を渡ると写真の高まりがあった。
どう見ても土塁である。
南に続く尾根方向の方が高いため、
主郭内部側に土盛りをしているようだ



   
土塁を東から西方向に見る。
 
堀切は両端で竪堀になる。
ただし、あまり顕著ではなく、
現状では自然に消えてしまうような感じだ。

堀切は単純に南の峰続きを意識して掘られている
  主郭内部は正直自然地形である。
東側斜面に竪堀状の溝が確認できるが、
竪堀としては機能していない。
なんの役にもたたなそうなので、
後世の改変と考えている
  この主郭平場からは、木々が無ければ
下方に15号線が良く見えただろう。

この広さならかなりの人が常駐可能だ。
陣城のような感じも受けるが
この地でそのような戦闘があったかどうか?、当方にはわからない。
◆図はYAMAPデーターより  城の遺構解説はこれまでである。

全行程のログが左。
大した山登りでもないが、今シーズン2回目なので
なまっていた体にはきつかった。


城跡見学の後に食べた「古里そば」の天ぷらそば。
心にしみる。
癒される
 
 【考察】

ここで、1,北村城と2,北村南城が何を守っているのか考えてみた。

城を築くということは、何かを守るという事である。
両城とも、かなり川の上流であることから、思川の水運を当てにしたものではないと判断できる。

となると、一番考えられる事は、北村城、北村南城に挟まれた道(現・県道15号)の往来監視だと判断できる。
つまり、県道15号線は中世の時代も街道筋であり、
ここを往来する人々の監視を、1,2,の城で守っていた・・ということである。

北村城と北村南城は、街道監視のためにたてられたのだろう。

両城は、思川の最も山深い所に位置している。
ここから南東に進むと、田園が広がり、粕尾城、大塚城に代表される粟野谷の城郭群落に達する。(下図参照)


『』

推論の域を出ないが、北村城周辺で何か戦闘があったのかもしれない。
敵が西から攻め込むことを想定し、この両城が築かれた可能性がある。
北村南城が、堀切一本の暫定的で、陣城のように見えるのも、この影響ではなかろうか?

また、可能性は少ないと思っているが、
両城が同時期に存在しなかった可能性もある。
両城の堀切の規模があまりにも違いすぎるからだ。

もう一つ。
この城は、粟野谷の城郭群と切り離す考え方である。
確かに、これらの城は城郭群からポツンと離れている。
この城の西に「発光路」という地名の場所がある。
ここは、修験の場所らしい。
この修験者たちの城、とも考えられる(クリヤさん、北村城の項で推察)

いずれにしても筆者の勉強調査不足で、史実や伝承、文書とは結び付けられていない。
しかし、縄張り、位置関係からは以上のような推論ができるのではなかろうか。

今のところの私見としては、粟野谷の城郭群と結び付けている。

『北村、北村南両城は、粟野谷の城々の西限境として築かれ、主な役責は街道筋の監視を、思川の両岸からおこなっていた』
と考えている