栃木県の中世城郭


  CS立体図調査ページ

CS立体図の存在を教えていただいてから続々と城を見つけています。
なので、このページを作りました。
ただ、城だ、城だと偉そうに喚めいてますが、実は、少々自信のない部分もあります。
これこそ、地表面観察の限界です。
最終的には、発掘等で決着をつけてもらいたいのですが、城である可能性を段階評価してみました。
城名の横に、評価を記します。


(評価)
◎ 絶対に城、自信あり 
○ たぶん城 
△ ちょっと怪しい
✖ かなり怪しい~城ではない。 このコラムには載せません。下の「ダメだったCS立体図のページへ」にエントリーします

○の中の数字は、調査した日付順番になります
また、城名は管理人が便宜上付けた名前です。所在地等で誤りがあるかもしれないことをお断りしておきます。

   城名  評価  城名  評価  城名  評価  城名  評価
 足利市 ⑳駒戸山城             
 大田原市  ②安養院の裏山  ⑧横山城 ⑫富池城 △~〇 ⑯寺宿城   ○
㉓久野又城            
 鹿沼市  ⑤櫃沢城  ⑪西沢城
(降格させました)
㉕布施谷城 ○     
㉖落ノ沢城 ◎  ㉗上久我富沢城 ◎         
佐野市  ⑭作原城 ⑮笠松城 ㉔会沢の城郭遺構 △~〇     
 栃木市 ③小野寺城 △~〇 ④星野城 ⑬仲方城     
 那珂川町 ①東戸田城の南 ⑦冥賀城 ⑨浄法寺城    
 那須町 ㉑那須寄居城  ◎             
 那須烏山市  ⑥山際城  ⑩下川井西城
(降格させました)
  ⑰大里城  ◎  ⑱下井上の長塁  ◎ 
⑲小白井城 ◎   ㉒烏山城北の遺構 ◎         
 日光市 ㉔所野城 ◎             



ダメだったCS立体図のページへ
CS立体図はかなり正確です。
だからといって全部が全部、城だとは限らないようです。
せっかく調査したのに失敗もあるので、その記録を留めたいと思います


〈注)”天使の輪遺構” とは、CS立体図上で丸く堀のような陰影が囲む地形を言います

   場所  評価 場所  評価 
 大田原市 ⑦川原1(天使の輪遺構) ✖  ⑧川原2(天使の輪遺構) ✖ 
鹿沼市  ①野沢町付近 ④西沢城 (降格で移動)  ✖ 
⑬菅沼       
 塩谷町 ⑪権現山(12社権現の裏山) ✖     
那珂川町 ⑤前山 ⑥健武の山
那須烏山市 ③下川井西城 (降格で移動)  
那須町  ⑩芦野城の西の低山  
日光市  ②愛宕山神社の山 ✖  ⑨小百の山  ✖
上三依821m峰      




CS立体図の候補地のページへ
CS立体図で当方があげた怪しい場所を公開します。
自分で調査したいのですが、なかなか難しいところもあり、公開することにしました


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新城確認!東戸田城南の城郭遺構 
  電子国土へのリンク
※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 那珂川町片平 2023/10/17 評価◎

  CS立体図を覗くと東戸田城の南の山に、怪しい陰影が。。。
これは間違いなく城だろう!
・・・・ということで、候補にあげていた。
私見では、当地を城郭として取り上げた資料は無い。



 

【解説】   結果がこれである。
 
 




目的の場所は東戸田城のすぐ南の山である。
CS立体図では、堀が山の半周を巡るように、はっきりと陰影が写る。
これは、城としての可能性がかなり高い



現地に到着し、早速聞き取りを開始。
ふもとの看板屋さんにお話を聞くと、山にお堀が回っているのはご存じであった。
しかし、城跡であるという認識はお持ちで無く、
山の名前も「城山」とかいう、特別なものは無いということだった。

字名は片平。

山に入りたいことを話すと、ご親切に車を駐車させていただけた。



登り口は熊野神社の参道があるので、これを利用すればよい。
境内裏には “升ノ内古墳” があり、これは町指定遺跡として登録されているようだ。
古墳の堀だろうか?



境内の裏から、山腹に潜り込む。
潜り込むと早速堀跡?と思われる平坦地がある。
なるほど、たしかにずっと続いているようだ。



これ沿って、しっかりした切岸が続く。
部分的に切岸は高くなるようだが、最低でも高さは3m以上はある。
しっかりした切岸だ。
 


それに対して堀は道にも見える。
しかし外観的には平坦に見えるが、部分部分で堀切状に変化するので、
「空堀」だったろうと考える。

もともとが浅いか、埋まってしまっているようだ。
 



堀かもしれないが、本当に 『城なのか?』 という疑いも生まれてくる。
神社を巡る堀も実際には存在するが、「城郭類似遺構」として、城と区別されている。

しかし、ここは尾根につながる部分を、堀切としているし、
西につながる峰上は、2重堀切となっている。
これは戦闘を意識しているとしか言い様がない。

古墳を巡る堀もここのような事例は無いようだし、後世の「道」としても説明できない。

       よって。。。。。。。
那珂川町に新城発見! 
 
東戸田城とあまりに近いので、これに関連した施設と考える。
まず考えられるのが、東戸田城の前身であったこと。
または有事の際の補助的な存在、逃げ込むための施設、籠城を意識したものなのだろうか 




このような城としての類似事例として埼玉県の山崎城をあげておきたい。
この城も、谷をぐるりと堀が回る城で、
当地で起きた何らかの戦闘時に築かれたと考えられている。

内部は池の存在が大きいが、谷間に大きな加工痕はない。

かくいう東戸田城南の遺構の谷中も、大きな加工はされていない。
近代のものか、往事からのものなのか、いくつか段はあるものの、はっきりしない。
特徴が非常に似ていることを追記しておこう




   
最初の図        修正後の図 

さて、実は、ここの縄張り図を完成させるのに、3日間も要してしまった。
最初に仕上げた図面が、CS立体図と堀の交わる角度があまりに違ったからだ。

最初はCS立体図を疑ったが、再調査したところ私の敗北が決定。
堀の角度違いは、私の図面だった。
デジタル技術には歯が立たない





新城確認!安養院裏山(東側)の城郭遺構 
  電子国土へのリンク
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 CS立体図で見つけた場所 大田原市亀久 2023/10/28  評価◎

  CS立体図を覗くと金丸要害の東、標高256m峰の東に、怪しい陰影が。。。

これは、城郭の可能性があるということで、候補にあげていた。
私見では、当地を城郭として取り上げた資料は無い。



 

【解説】   結果がこれである。
 

 

 

この山に登る明確な道は無い。
唯一書くとすれば、安養院の裏山のお墓からの道である。
 

登山道の入口は写真。
真中が入口となる

 

この登山道を登り詰めると、山頂には写真の祠がある。
しかし、目的の場所はここではない。
ここからさらに東に向かうことになる。
実は、この先は、ものすごいブッシュとなる。
覚悟が必要だ。
(実は、管理人はこのルートを使わず、テキトーなところから直登した。
お薦めできないルートなので割愛する)
 

東の峰に着くと、明らかな切岸が目に飛び込んでくる。
しかし、これだけでは『城』として認める訳にはいかない。
 管理人は切岸周りを歩いてみることに。

すると。。。



 

バッチリ 堀切 だ!!
(写真は主郭北尾根続きの堀切)
 

主郭の西側にも回ってみる。
ここにもバッチリ堀切がある。
また、西には、
明確な虎口も見られる。

これで、決定的となった。
大田原市に新城発見である!
 金丸要害や亀山城に近いことから、これらの城と関連する施設であろうことは想像できる。
また、広い山の頂上部分の東側にだけ遺構があることから、東の佐竹氏を警戒しているようにも見える。
いずれにしても、単郭で、ここになぜ城を必要としたのか、はっきりしたことはよくわからない。
 


新城確認!小野寺城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 栃木市小野寺 2023/11/23  評価○
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、唐沢山城に続く山塊に怪しい陰影が。。。

これは、今まで紹介されていない唐沢山城の支城では??

私見では、当地を唐沢山の関連として取り上げた資料は無い。

これは、ひょっとしたらひょっとするぞー。


■国土地理院、CS立体図より

 

【解説】   結果がこれである。
 
◆現地縄張り図。暫定掲載します
 

 


この山に登る明確な道は無く、ちょうど良い駐車場もない。

当方は、近くの公民館関連の駐車場に止めさせていただいた。
 



国土地理院の地図では、山途中まで道が付いていた。
それをたどった登山道の入口の写真。
途中まで舗装工事が進んでいるようである

 


城跡手前の三角点。
標高172.7m。

眺めが良い。
 



そこからさらに西に進むと、城郭候補地。
確かに明確な切岸が見えてくる。

しかし、周囲を歩いても、堀のような遺構は見当たらない。
この時点で筆者の新城発見の道は叩かれた・・・と思っていたら!。





さらに進んだところに、突如堀切発見!

しかも土橋付き!
(写真では分かり辛いですね)
 


ああ、これはバッチリ 堀切 だ!!
・・・ということは、やっぱりここは城跡と認めざるを得ないか・・・、
結局、遺構は、主郭まわりの切岸と、一本の堀切のみ。
主郭部の他の尾根には、傾斜がきつくないのに、堀切は皆無。
・・警戒しているのは西方向だけとなる。

うーんんっつ。


まあ、とにかく栃木市に新城の発見だ!
 
目的がイマイチはっきりしない作りである。
しかし、堀切の存在から城であることは間違いなさそう。
唐沢山城の支城とするには、明確な理由が見つからない。

ひょっとすると主郭のような切岸の曲輪は後世の物なのかもしれない。
もともと城跡だった場所に、神社などの社を築くために、山頂部のみ加工した可能性がある。
周囲の堀切はそのまま残した、という可能性もあるな、とおもった。
しかし、地名を聞いた地元の人の聞き取りでは、城跡であったとも、神社であったとも言っていなかった。
まあ、おひとりにしか聞いていないが。。。。




新城確認! 星野城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 栃木市星野 2023/11/23 評価◎

 

■国土地理院地図とCS立体図より
CS立体図③に引き続き、目的の場所へ。

立体図には標高262m峰の西に、怪しい陰影が。。。

これは、城郭の可能性がかなり高い!

ここは星野遺跡のすぐ近く、不摩城、藤沢城から約2.3kmという位置にある。


 

【解説】   結果がこれである。
 
 

 


この山に登る明確な道は無い。
仕方がないので、車は近くを流れる永野川沿いにとめる。
 
ログはYAMAPより


登山道もないので、適当に山に登る。

ログの地点まで来た時に、早速堀切が現れた!

もう、この時点で新城発見確定!!!
 
ログはYAMAPより


さらにここから登り詰めると、明らかに削平された平場に出る。
 


さらに登ると、目の前に長く続く腰曲輪が飛び込んできた。

主郭の切岸も見えてきた。
 管理人は主郭切岸周りを歩いてみることに。

すると。。。
ッチリ 堀切 だ!!



堀切はしっかりしていて、これを城と言わずして、何たるや!

  


 


調査してみると意外に主郭の普請はしっかりしていない。
頂上部を残し、あとは、ほぼ自然地形。
その周りを堀切や腰曲輪が巡る構造。

ひょっとすると、全周横堀だった可能性もある。


  城跡の山を望む。
麓に家もないので、地元の方とお話できなかったが、
おそらく忘れ去られた城であろう。
栃木市に新城、もう一個発見である!
 
永野川沿いでもあるし、不摩城などと同じ目的で構えられたのだろう。
しかし、少し山深いところにあって、主郭に代表されるようにかなり暫定的なイメージが否めない。
陣城っぽい藤沢城もあるが、この川沿いである時期、大きな戦闘があったのではないか?と想像できる城である。
永野川を境に戦争でもあったかな???
 


新城確認! 櫃沢城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 櫃沢城か 鹿沼市中粕尾 2023/11/26 評価◎

 

■国土地理院とCS立体図より
CS立体図で、目的の場所へ。

やはり怪しい陰影が。。。

これは、城跡だろう。

かなりの確信をもって調査したのが当地である。


ちなみに、ここ南600mに、ヒトデ型をした粕尾城がある。


 

【解説】   結果がこれである。

 

城のバイブル「日本城郭大系4 茨城 栃木 群馬」(新人物往来社)の 「粕尾城」の項には、

粕尾城の別名を寺窪城とした上で
鎌倉公方足利氏満と小山義政が対峙した「小山義政の乱」の時、義政が寺窪城から逃れ、討ち死にした場所として「櫃沢城」が紹介されている。

”この櫃沢城は、寺窪城の北の沢が櫃沢と言われているところから、その北の台地とする説①と、
寺窪城から粕尾川を隔てた対岸の地②とする説があり、確定していない”


・・とある。

今回管理人が確認した城は、まさに①の説の場所なのである。
当地が櫃沢城に当たる確率は、かなり高いのではないだろうか。



 


この山に登る明確な道は無さそうだ。
仕方がないので、車は近くのゲートボール場横にとめた。

朝も早いので、周りに誰もいない。
山に登るお断りや、情報を仕入れるにも、どうしようも無い。

すると、写真右手の電信柱の向こうに山に向かう道がある。
迷わず筆者はそこを歩いてみることにした。
 


ラッキーなことに、道はうまい具合に山くに通じていた。
しかし目的の山の麓には猪避けのバリケードが張られ、
どこから山に取り付こうかと悩んでいた。

しかし、道を写真のところまで来ると、二股に分かれた。
山の猪避けのバリケードも、ここで途切れた。(写真右手)

よし、ここから登らせて頂こう。。。
管理人は、写真右手から山に取り付いた。














 
ログはYAMAPより


山に取り付くと、早速ログの位置に立派な切岸が現れる。
CS立体図と一緒だ。

「これは予想通りに期待がもてるな・・・」
 

ログはYAMAPより


さらに登ると、目の前に堀切①が飛び込んできた。

もう、
間違いなく城である。
そう確信した。
 
ログはYAMAPより



堀切①を越えて、いくつかの切岸を越えると、もう一本堀切②が!!
 
ログはYAMAPより


さらにさらに登ると、大きな堀切③が現れる。

あーぁ、誰がなんと言おうと、絶対城跡だ!

でも、内部は傾斜した自然地形で、結構な広さを持っている
どうやら、郭内は傾斜しているものの、
堀切②ー③間の曲輪が、主郭のようだ。

 
ログはYAMAPより


さらにその先、堀切④だ。
堀切③ー④の間は自然の峯続き。

 
ログはYAMAPより


 堀切④の先まで行くと、急斜面になる。
登ってはいないが、もう遺構はないだろう。
城のルートだが、山の西先端に桝形門が残る。
枡形門の南に小郭があることから、道は、南に下っていたと思われる。

実は、この城の曲輪群の南下には、枡形門から帯状に曲輪が、堀切④まで続いている。
これが、城内の道なのだろうか?
 


   写真は下山後、山全体を写真にした。

どちらにしろ、ここは
新城である。
思いを込めて、管理人は
櫃沢城と命名させていただいた
鹿沼市に新城発見である!
小山義政自刃の伝説に、少し近づけたような気がするのは、私だけだろうか? 
 


新城確認!山際城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 那須烏山市 山際 2023/12/03  評価◎
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、山塊に怪しい陰影が。。。

■国土地理院、CS立体図より

 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。


 

 
車は近くを通る県道沿いの片隅に止めさせていただいた。
写真の山上が、山際城である。

当初は、ここから直登しようと考えたが、藪で無理。
結局、山の北先端まで歩いて、沢を渡り、尾根に取り付いた
山を登り、最初に見えてきたのは、最北の曲輪。
曲輪ではなく、堀切かもしれない。

その上にもう一段。
これも堀切かもしれない。
さらに上がった主郭。
加工が甘い。
本当に、ここが城なのか自信がなくなるところだったが、

南に足をすすめると・・・
下に曲輪が見えてきた。
降りると、峰をぐるっと回る堀となっている。
ここから、山の両脇を道状に囲んでいる。

さらに、南にも、もう一本明確な堀切が確認できる。
那須烏山市に新城発見だ!
 位置的に見て、烏山城の支城と考えられる。
主郭の加工が甘いことから、たくさんの人数を収容する城には見えない。
どちらかというと、物見的な役割の城に見える。


新城確認!冥賀城(仮称)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 那珂川町冥賀 2023/12/02  評価◎
 

■国土地理院、CS立体図より
CS立体図で、怪しい陰影が。。。

 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。暫定掲載します


 



まず、車を止めるところもないので、仕方なく管理人は武茂川沿いに駐車。
目指す山は見えるのだが、とにかく取り付く島がない。
なにしろこの山へのお薦めルートは無い。
地形図に谷間を抜ける道が描かれているが、廃道。
まったく辿れない。

管理人は、無理くり休耕田をわたり、山に取り付いた
冬なので、日も暮れかかった時間に山頂に着いた。
山頂には、大きな加工もなく、不安に思っていると、
大きな堀切に出くわした。
これは、その堀を横から見たところ。

写真が撮れてないが、ここから北に堀切が二本つづく。
三連続堀切となっている。


なにしろ写真を撮るより、縄張り図を描く事が優先になり、
遺構の写真は、これしか撮れていない。
冬の日が落ちるのは早い。
(※写真では明るく見えますが、結構斜陽)
帰りは、山の南尾根をたどってみた。
途中に祠があり、ここから明確な道が下っている。
深い沢を渡る木橋もあり、
これで、読者に明確な登城ルートを紹介できると思っていたが・・・
 
申し訳ないが、この橋にたどり着くためには、
左写真の藪の間隙をぬわなくてはならず、目標物も無く
申し訳ないが、説明ができない。
またまた那珂川町に新城発見!
武茂川北沿いには、城が林立することになる
武茂西城、本城、東城、鳴神山、冥賀、武部城・・・・
東西に城が一直線に並ぶこの異常な乱立ぶりは、一体何なのだろう?

管理人は、武茂氏は宇都宮氏当主も台頭するお家柄なのに、なぜか戦国後半は佐竹氏に従っていた。
武茂氏と佐竹の軍門に下る前に、かなりの反発があったのではなかろうか?
そして武茂川を挟んで、かなりのドンパチを佐竹と繰り返していたのでは?と想像している。
その証拠が、この城の乱立ぶりだと思っている

ただ、こんなに武茂川北岸に武茂氏側の城があるのに、武茂川の南側対岸には、対立したおそらく佐竹側の城が知られていない。
これが疑問であった。

しかし、このCS立体図の調査で、武茂川の南の山にも城の候補地が見つかった。
今後、調査を実施していき、乱立の謎を解明したいものだと思っている。



工事中
新城確認!横山城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 CS立体図で見つけた場所 大田原市須賀川横山 2023/12/17 評価◎
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、怪しい陰影が。。。


現地調査を行ったところ、城と判定した。
また、その南の山も城であった。


 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。暫定掲載します
雨で、南側の城のみしか図面が描けてません


 

■横山城北の城
   この山に取り付くのは非常に困難を極める。
明確な道もなく、山下は結構の藪が広がっている。
筆者は、無理くり藪こぎをして、なんとか山に取り付いた。
横山城の北の城は、そこそこの規模である。
城内には結構林道が作られており、破壊が進んでいる。
また。写真のように、結構な藪が広がっている。
おまけに、雨上がりのため、水滴が酷くて
この日は縄張り図を断念している。
しかし、最西には、結構しっかりした堀切が残っているので、
ここが城跡であるのは間違いない。
ただ、この堀切以外、ざっと見たところでは堀はなさそうである。

とにかく、この北の城については、別の日に再調査が必要だ。
■横山城南の城
北の城の南の山にも、城跡を思わせる陰影がある。
(本コラム最上図を参照)
筆者は雨の中、調査を試みた。

期待はしていなかっただが、
最西に、浅いが堀切とわかる遺構が確認できた。
城で間違いない。
現状堀深さは1m以下である。
雨も少し上がってきたし、山がそれほど荒れていないので
図面を描くことにした。
主郭と呼ぶべき最高所は、完全に自然地形。
なにも加工していない。
   主郭の南には、小郭がある。
堀切の可能性もある。

左写真は、小郭を下から覗いたところである。
   この小郭から腹帯状に細長い道状の腰曲輪が東面を回る。
この腰曲輪の状況から、この山を守る城であった事は
間違いなさそうだ
大田原市に新城の発見だ!
 近隣には須賀川要害がある。
構造的には段々がメインの城であるとことが似ているので、これに関連した施設だということは言えそうだ。
近隣には「宿」という字名があるので、押川にそっての宿場町があったのかもしれない。
これに呼応した城なのであろうか? 
なお、この城の地名も須賀川なのであるが、区別するために近くの字名「横山」とさせていただいてる。

新城確認!浄法寺城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 ⑨CS立体図で見つけた場所 那珂川町浄法寺  2023/12/20  評価◎
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。
 

 
車は館の東、道路の交差点が広いので、ここに止められる。
写真の階段を上がり、お墓に一礼して山に入れば、城跡まで迷うことはない。
早速切岸にぶつかるが、馬出しである。
写真左側が通路となっている
馬出に入ると、主郭と馬出を区切る堀にでる。
写真は馬出側の土橋上(写真手前)から、堀を見ている。
本丸は平坦で、馬出から西に進むと、2mほどの高い土塁が現れる

本丸土塁を越えると、再び堀切となる。
馬出部の堀より、堀幅は広い。

   主郭北辺に、四角い張り出しがある。
作成意図がよくわからないのだが、ここから細い腰曲輪が両端に延びる。
   主郭南下の腰曲輪である。
畑として改変された可能性がある。
切岸はあるのだが、往時からのものか、判断がつかない。
那珂川町に新城発見だ!
 

浄法寺氏の城は、麓の「浄法寺館」が紹介されるものが多い。

しかし、左の佐竹義昭の文書で

”那須氏が「浄法寺城」に軍勢をいれ籠城している・・”

という浄法寺城は、麓の館ではなく、今回発見した当城と思われる。



たぶん新城確認!富池城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑫CS立体図で見つけた場所  うーむっ、城だよね・・・ 2023/12/29  評価○
■国土地理院 CS立体図より
 
ホームページのお客様 けいぴん様からの掲示板へのタレコミです。
たしかにCS立体図で、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。暫定掲載します


 

  掲示板の投稿から、「城のようだ」ということで当地をおとづれてみた。
車は舌状台地の温泉神社にとめられる。
この拝殿の裏から山に入る。

YAMAP位置図と写真
しばらく歩くと南側の堀切に出る。
堀切はまっすぐなのであるが、東面は堀が消失しているようだ。

YAMAP位置図と写真
南の堀を渡り、最北の堀切に出た。
堀を切岸に回り込ませるような形で残っている。
堀には写真の土塁も伴う

遺構としてはっきりしているのは堀切のみである。
CS立体図では、堀切間の東、西面の切岸がはっきりしているように見えるが、
現地に行ってみると、堀切間の切岸はまったくはっきりしない。
緩い傾斜地となっており、切岸と渾然一体となってしまう。

なんとも怪しい残存状況であるが、一応堀切があるので、城なんだろうなぁ。
・・・ということで、大田原市に新城発見としよう
 


新城確認!仲方城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑬CS立体図で見つけた場所    2024/01/02 謹賀新年 初登城 評価○
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。


 

  いわゆる”天使の輪の城※”である。

ここに行くには、麓の畑の傍らに駐車。
10時を回っていたので、早速近隣の住宅で聞き込みを開始。

たまたま外に出ていたご主人にお話が伺えた
駐車の許可と、事情を話すと

「城?神社?うーん、聞いたことないな」 という。

想定内のお答え、ありがとうございました!


※天使の輪=山の頂上部をグルリと一周する陰影

YAMAP位置図と写真
早速山に突入。
目的の場所に到着。
左が切岸、右は平坦地(空堀だろうか?)になっている。
  ほぼ3/4周を帯状に曲輪が巡る

YAMAP位置図と写真
北の尾根続きは浅い堀切となっている。
ここを見て城かなぁ~、と感じた。
上の堀切を真横から。
50cm程もない。
堀だとしたら、かなり、埋まっている。

YAMAP位置図と写真
そこからさらに尾根を北に進むと、もう1条堀切がある。

ただし、ここもかなり埋まっている。
しかし、先ほどの堀よりは深い。
その堀切を真横から。
単独ではなく、二重堀切となることから、
やはり城で間違いなかろうと、判断した。
 
麓より、仲方城を望む。
城跡を下から眺める
目的はなんであろう。
永野川が形成する広い谷間が、吹上城、皆川城で挟まれ始まっている。
谷は扇状地のように広まり、その頂点あたるのが当城となる。
吹上、皆川の背後の谷間の監視という意味合いなのだろうか?


ちなみに、この永野川の上流には、藤沢城、不摩城がある。

国土地理院、CS立体図の合成
栃木市に新城発見だ!
 ちなみに、その地名から「仲方城」と呼ばせていただこう



新城確認!作原城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑭CS立体図で見つけた場所    2024/01/05 評価◎
■国土地理院 CS立体図より
 
CS立体図で、怪しい陰影が。。。

 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図。

 

 

車は麓の "真如院" にとめられる。
猪よけの柵がお墓周りを巡っている。



城跡へのアプローチとしては、この寺から延びる尾根を直登するのも良いが、
CS立体図に作業道が描かれている。
Google MAPの写真でみても、鮮明に山肌に作業道が確認できたので、
左写真、山腹に見える作業道を登ることにした


寺からは、川沿いの林道を歩けば、山の作業道にたどり着ける。
ただし、山麓付近の道は、藪があり、結構荒れているので注意。



山の作業道。
木を伐採する為に作ったと思われる。






作業道終点に到着。
ここから少し登れば城跡だ。










眼前には、蓬山城が見える。
麓に、蓬山ログビレッジ。

しっかし、いい眺めだ。

 

 主郭についた。
頂部は平らだか、あまり加工してない感じ。
 

主郭を南東に進むと、堀が見えてきた。
最初は2重に見えた。
堀切である。
結構しっかりしているので驚いた。
写真右手が主郭で、土塁となっている。
 
その土塁である。
しっかりしている


 
 

堀切の上段にある竪堀。
尾根の南側半分から発生している。
場面変わって、主郭下の曲輪郡である。
壁があまりはっきりしない。
無理くり追いかけて図面にしたが、人によって解釈がバラつきそうだ。
佐野市に新城発見である!

蓬山城の目の前にあること。
また、標高がほぼ一緒のところから、両城に関係性があることは間違いない。

蓬山城は、今から約20年前に訪れたが、なんとも心もとない城(砦?)なのであった。
それに比べれば、印象としては、こちらのほうが城っぽい。
土塁、堀が非常にしっかりしているからだ。

しかし、図面を見ていただけばわかると思うが、不思議なのは、
北側にまったく警戒の意識が無い。
あくまで、谷の下を流れる”旗川”の下流方向を意識している。

築城者はこのあたりをどのように統治しようとしていたのか、今後も目を向けていきたい。





新城確認!笠松城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑮CS立体図で見つけた場所    2024/02/02
■国土地理院地図、栃木森林CS立体図より
 
下彦間町に、CS立体図の怪しい陰影が。。。
私も目をつけていたのだが、ホームページのお客様 「けいぴん」 さんが先行でこの場所を調査され、
城であることは確実に。。。
それじゃあ、行かない訳いかないでしょう!!


 

【解説】   で結果がこれである。
現地縄張り図
◆全体




 


笠松城には、廃校となった小学校横の、大松自治会館の横から登れる。
建物の左側から山に取り付こう



すると、すぐ土橋付きの堀切③を発見。
後でわかったのだが、ここは主郭から300mほどの距離が有る。
しかも、両側が竪堀になってないことも気になる。
木を抜いた跡?とも考えられるが、こんな器用に木を抜くわけもない。
難しいところだが、遺構としておくことにした。
 


 


 ここからは、細い尾根をひたすら登る。
途中から尾根上に溝が表れる。
埼玉県では尾根を潰す竪堀が散見できるので、栃木も!と思ったが・・・・・

その先に、左写真の祠があったので、この参拝道と結論づけた。





 
◆笠松城主要部
 参拝道を過ぎると、いよいよ主要部に入っていく。



祠からは山の傾斜がなくなり、
ダラットした尾根をさらに進むと、堀切①が現れる。

写真では分かりづらいが、土橋を伴っている。
東側の堀はわかりやすいが、西側は埋まっているらしく、
薄っらとしか、わからない


堀切は両側で、竪堀となる。
 





主郭手前である。
土塁と堀が薄く残る。
くちばし状に尖ったところが、虎口なのだろうか?

ここから平坦地にも見える、堀状の曲輪が、
主郭西側をグルリと回る。
主郭東側には曲輪は回らない。
 











地図上229mに到着だ。
いわゆる主郭になるのだが、
加工をほとんどしていない。
自然地形のままに近い。

ただし、西面には段を作っていたようだ。

←YAMAP(国土地理院)より


 主郭の北側。
低い切岸と遺構が薄いが、下の写真、縄張り図のように、土橋を伴った堀切②がある。
堀切は、土橋を経た西側、東側両側ともに竪堀となっていたようだ。

ここから先は、だらだらとした広い稜線が続き、
途中、堀切のようにも見える切通があるが、CS立体図から判断すると、麓まで続く道の跡である。
かつての城道であろうか?
 
写真は、堀切②の堀と土橋 左:北から撮影 右:南から撮影(遺構が薄いのでわかりづらい)


いずれにしても・・・・
佐野市に新城発見だ! 
国土地理院地図より

周囲を俯瞰すると、笠松城は城之山城の尾根続きにあり、その支城と考えるべきであろう。
しかしながら、城之山城の歴史は明らかではない。

ところで、笠松城と谷を隔てて、須花城がある。
須花周辺は、天正13年(1585)佐野宗綱が足利長尾方に討たれた地として知られている。
このことから、須花城は足尾長尾氏の城とされている。

よって、佐野宗綱がこの地に入り、ここで討たれたということは、
笠松、城之山は、長尾氏に対峙する佐野氏方の城だったと考える事が、
一番収まりが良いのではなかろうか?



新城確認!寺宿城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑯CS立体図で見つけた場所    2024/02/24
 
 ■国土地理院地図、栃木森林CS立体図より
 

CS立体図で、怪しい陰影が。。。

 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 
■国土地理院地図、栃木森林CS立体図より

この陰影を、管理人は寺宿城と称す。
寺宿城は、標高373mの羽黒山要害城の北に当たる。
位置的、視野的に連携の取れる場所であり、
このあたりの「要害群」に混ぜても良いかと思うが、
確証がないところもあり、あえて寺宿”城”とした。

■国土地理院地図、栃木森林CS立体図より

もちろんであるが、登山道はない。
実は、主郭北にこの山にそぐわない切通しの峠道がある。
この道が東に伸びる谷に下っていることから、
東の谷中に登山ルートがあるかもしれない。

参考に記すが、筆者は、城の北方の川を越えた●部に車を駐車した。



主郭に到着すると、山の上は何も加工をしていないように見えるが、
南方にこの堀が現れる。
 

 
この堀にはしっかりした土橋が伴っている。
 

 
西側の堀端から、土橋を望む
 

 
写真では分かりづらいが、
土橋前主郭側には土塁が伴っている。
土橋、堀、土塁の3種の神器が揃った事から、
ここが新城であると判断した。



主郭の切岸はここから北へ向かう。





切岸を西の斜面から見上げる。
結構しっかりしているが、堀は埋まっているのか?
ちょっとわからない。

切岸は、ここからほぼ主郭を全周する。
ただし、主郭北側は近代の林業等の作業道のように見える場所もある。
 

 ちょっと怪しいことに、ここ主郭内には祠が残る。
祠のある筆者呼称”天使の輪地形”には散々騙されてきた。
しかしながら、ここには先述の三種の神器がある。
切岸も傾斜の緩い方面を重点的に作っていることから、
城跡と判断した。


さて、この城の北にある当山中にはそぐわない峠道。
しっかりした道で、完全に人の手によって作られたものだ。
両脇が土塁状になっている。
この道が大手なのだろうか?


 少なくとも   
大田原市に新城発見だ!
 主郭の南正面の山は、羽黒山要害である。
この城との関連を指摘することは容易いが、
その目的は正直言ってよくわからない





新城確認!大里城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑰CS立体図で見つけた場所    2024/03/09
■国土地理院 CS立体図より
ホームページのお客様、けいぴんさんの情報より確認できた新城です!!
笠松城といい、けいぴんさんの観察力には毎回脱帽です。 


情報の場所には、確かにCS立体図の怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


大里城には、麓の道路の人家跡地前に車を駐車させて頂く。
管理人は、写真正面の林の尾根から取り付いた。
 

この山で、なにしろイケナイのが小竹の藪である。
この城はほぼ全域がコレ。
コレだと写真なんか、チッとも役に立たない。


それでも、なんとか唯一写真になるのが最北の堀切の写真。
この堀を見て、”けいぴん”さんのおっしゃるように、
城であることを再認識した。

誰が見ても、綺麗な土橋付きの堀切である。



その堀切りを、北方向から南に向かって撮影。
真正面は土橋である。
本当にしっかりした堀切である。



しかし、それより南はご覧のとおり。
主郭に近くなると、このとおりの藪。
これは、北から2番目(真ん中)の堀切虎口脇の土塁。
お分かりになるだろうか?



そして、正面が土橋。
雪があるので、なんとなくお分かりになるだろうか?
 

しかし、小竹のおかげで、目が危なくなってきた。
メガネをしていても、横から枝が入ってくる。
管理人は、枝で目を負傷した経験があり、
ここから、保護メガネを装着した。
 


 写真は同じく中央の堀切である。
お分かりになるであろうか?


結局北の堀切と、中央の堀切に挟まれた部分が主郭と判断できる。
全体をなんとなく帯曲輪が囲っている。
しかし、曲輪内部は、ほぼほぼ加工してないので、
かなり臨時的な城であると判断した。
写真撮影はここまで。
全く役に立たない。
さらに、主郭を越えた、二の郭南にももう一本堀切がある。

しかし、南北方向の堀切は明確であるのに対し、
二の郭内部は東に極端にゆるい緩傾斜となっている。

城の東側は、主郭東側より二の郭東側の防御は甘くなっている。
これはどういうことだろう・・・・・?
 
さて、この城の南方には森田城がある。
大里城の北は、荒川で形成された河岸段丘になっている。
この河岸段丘は、森田城に続く段丘上に築かれているのが分かる。
よって、大里城は森田城の支城であり、
位置的に見て、大里城は、森田城の北の守りと考えたい。

ここで、なるほどと思ったことがある。
大里城の最北から東に伸びる尾根には、それなりの加工があるのに、
二の郭東側に加工を施してない理由である。
つまりは、森田城の支城であるがゆえに、森田城方向に重きを置いていないのだ。
最北から東に伸びる尾根は、段丘に近いところで、北からの敵を防備したのだろう。


やはり大里城は、森田城の北の備えであったのだ。
 ■CS立体図より
那須烏山市新城発見だ!
 けいぴんさんのおかげで、ふたたび、クリーンヒットが生まれた・感謝申し上げる。



新城確認!下井上の長塁  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑱CS立体図で見つけた場所    2024/03/16
■国土地理院 CS立体図より
CS立体図で、怪しい陰影が。。。




 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


長塁に行くには、この自販機の前に車をとめて・・・
   この農道を上に向かう。

その途中から画面左の藪尾根に取り付くのだが、
なにしろ藪である。
行く方は、ご覚悟ください!
 ■YAMAPより ヤブ尾根に取り付き、しばらく登った、左図の地点・・・・
 

 突然、虎口が現れた!!
 

 
虎口を抜けると、土橋があり、右手にこの堀。
 



 堀中に入ると、結構高い切岸になっている。
 

 
土橋の反対側も土塁がある。
並行して、堀もある。
 

 

おい、おい、おい!
結構な普請量だぞ、この土塁。
 





もう、これは長塁と言って問題なし。
間違いなく城郭遺構。
南側の土塁、堀は、斜面途中で忽然と消える。

この丘陵地帯を、陣城・・・・というより 「陣地」 で使った跡では?? 
かなりの土木量で、かなりの規模である。

ここに陣地を築く歴史イベントとしては、永禄9年(1566)治部内山合戦が伺える。
上那須、佐竹、宇都宮連合軍が、この長塁北の ”熊田” に陣を張ったとある。
下川井城、小志鳥城あたりに入ったのだろうか。

対する烏山城側の那須資胤が、これを迎え撃つ。
資胤は、この多勢に無勢の戦いを撃破するのだ。

管理人は、下川上のこの長塁は、その時に資胤側が築いたのだろうと推測する
なぜなら、長塁の堀が ”熊田方向” に向いているからだ。
この丘の上に陣をとり、西の平地部の戦いの様子を眺め、指揮を取っていたのかもしれない。

もしかしたら、この長塁の存在が、勝利を導いたのではなかろうか。。。。
 
 とにかく 那須烏山市に新城発見だ!




新城確認!小白井城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑲CS立体図で見つけた場所    2024/03/27
■国土地理院 CS立体図より
CS立体図で、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


小白井城には、麓の神社の道路脇に無理くり駐車させて頂く。
 

 管理人は、写真の日枝神社正面の林を直登。
 

 直登してしばらく歩くとこの堀切に出る。
縄張り図上で、一番、最北の堀切だ。
 最初にお断りしておくが、写真がマトモに取れるのは、この堀切だけ。
あとは、小竹の藪の中で、全く写真にならない。

右の写真は、最北の堀切が竪堀となり、
上から下へ向かって写真を撮っている。

ご覧になるとわかると思うが、おそらく城外側?の左手の方が、
壁が高い。
どうしてなんだろう???
 

 

 竪堀を下から見る。
やはり城外側、右手の壁が高い。
竪堀は、ほとんど麓まで続いている。
 

堀切内。
綺麗な青空である。
 

北から2番目の堀。
小竹で分かり辛いが、正面が主郭の壁となっている。

この城は本当に撮影向きではない。
あとは、ほぼ藪。
 

 藪のおかげで、大里城同様、ゴーグルを装着。
もう、藪こきでヘロヘロの管理人なのであった。
図面を見ると、結構立派な城なのである。
ただ主郭は、北から3番目の堀から、かなり標高の低い所に位置している。
このあたりが、説明に難しい城だ。
周囲には、葛城城、葛城龍崖城がある。
これらの城と関係があるのだろうか?
城の歴史には興味がないが、ちょっとだけ町史を読んでみるか。。。。。

   
まあ、とにかく 那須烏山市に新城発見だ! 




新城追加!駒戸山城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
⑳CS立体図で見つけた場所 もうひとつの駒戸山城    2024/03/30
■国土地理院 CS立体図より

CS立体図で、怪しい陰影が。。。
ただし、ここは比高300m超の山。
仕方ない、行ってみるか。。。

栃木の城のバイブル「栃木県の中世城館跡」では 
駒戸山城として、この山の西の頂き540mを『駒戸山城』として図面が掲載されている。
そこから山頂部を「駒戸山城」と紹介している資料・ネット情報が多い。

しかし、上記のCS立体図はココから50m程下方の山である。
発見すれば、「新城」となる。



 
 

駐車場は名草厳島神社。
今回はSNSでお知り合いになった「みのぽん」さんとご一緒した。

ちなみに、ここの神社は、”名草巨石群” の入口である。
城とは関係ないが、大きな岩は一見の価値がある。
弁慶の割石、胎内くぐりなど、立ち寄ってみると良い。


 
■YAMAPより

さて、神社から駒戸山城への道は無いと言って良い
地理院地図には明確な山道が書かれているものの、
そんな道は今は無い!
最近の地理院の山道は信用できない。


城へは、この駐車場から比高300mほど登らねばならない。
結構な登山を強いられる
管理人は、体が持つかちょっと不安になった。

参考に管理人たちの登山ルートを
赤線で記す
  駒戸山城(東の城) 
 



 
■堀切1を東から西に向かって撮影



駒戸山城
(東の城)につくと、早速堀切1が迎えてくれた。
 
■堀切1を西から東に向かって撮影

 結構深い堀切で、この瞬間、
間違いなく「城である」と断定。
 
■堀切1下の虎口部分を東から西に向かって撮影


堀切1下には、
おそらく2の郭へ向かう通路の跡が残る
 

 堀切2である。
主郭同様、しっかりした堀切だ。
 

ただ、堀切2の両脇は竪堀処理がされていない。
堀切1もそうだが、あくまで稜線部分だけ
  駒戸山城(山頂の城)
■国土地理院 CS立体図より
東の城の西、「駒戸山」山頂にも、遺構がある。
便宜上、山頂の城と呼ばせていただく
 
 


 



駒戸山城(東の城)から西に向かう。
登ること30分。
ここが、いわゆる「駒戸山」の山頂だ。
標高540m。
ここを駒戸山城
(山頂の城)とする。


繰り返しになるが
栃木の城のバイブル「栃木県の中世城館跡」では 
駒戸山城の図として、ここの縄張り図を掲載している。
なので、この山頂部を「駒戸山城」と紹介している資料・情報が多い。

しかし、バイブルの記述をよく読むと
先述の
駒戸山城(東の城)の遺構の記述もされているのだった。
また東の城の南鞍部を
田保坂峠と称すことも書かれている。


 

山頂の城は奇妙な土塁で囲まれている。
土塁というより、
山頂部をえぐって作ったたような壁である。
 

南には堀切がある。
ただし、堀は東に向かってだけ顕著で、西側になると薄くなってしまう。
城の北側は、城外とつながっていたような様相を見せる。
西側は城内側からは高い壁の高まりに囲まれるが、
外側の緩傾斜との遮断はほとんど見られない。
 

東側は、駒戸山城(東の城)とつながる尾根に、
桝形門?のような虎口跡がある。
駒戸山東の遺構と山頂の遺構が
連携していることが伺える。

左の写真は、堀切から、桝形門?方向を見たところ。
土塁が、一番奥でクランクしているのがお分かりになるだろうか?
 
以上が駒戸山の遺構である。
察するに、駒戸山城は、
田保坂峠を監視していたのではなかろうか?
峠に近いところに駒戸山(東の城)城を築き、さらに遠望のために、駒戸山城(山頂の城)を物見としていたと考える。

田保坂峠を東に降り、南下すれば須花城(佐野氏方の城)に続く飛駒川の谷に出る。
また、下った北には佐野氏を警戒する為、長尾氏によって築かれた要谷山城がある。
よって、駒戸山城も長尾氏によって築かれ、要谷山城とセットで
佐野氏を北から押さえ込んでいた可能性がある。

また、駒戸山城(山頂の城)の遺構が全く西方面、北方面を警戒していない。
これは、その方面が領地だった人の城だということになる。
ここからも
長尾氏の築城の可能性が高いと言えるのではなかろうか。

以上、駒戸山城は長尾氏の城であり、佐野領を北から押さえ込むために築かれた可能性が高いと考える。

まあ、とにかく 足利市に新城追加だ! 



新城確認!那須寄居城(仮称)
  電子国土へのリンク
※中心位置表示にチェックを入れてください  203 111 522*06

 CS立体図で見つけた場所 那須町寄居 2024/04/13 評価◎

   
■CS立体図と国土地理院地図より

CS立体図を覗くと那須 寄居本郷の南の山に、怪しい陰影が。。。
これは間違いなく城だろう!
・・・・ということで、候補にあげていた。
私見では、当地を城郭として取り上げた資料は無い。


 

【解説】   結果がこれである。

◆縄張り図
車は、右写真のずっと奥、携帯電話の電波塔下に駐車
山へは、白いガードレールの途中から尾根に取り付いた。
城跡候補地の南側から攻めるルートだ。

結局、この南ルートでは城跡山頂に至るまで、遺構はなかった。



・・・・失敗か????
不安がよぎった。
 

しかし、山頂には何とも言えない微妙な凹凸があった。
写真は手前から奥に向かう土塁のような高まり。
 

主郭内部の状況。
きっちり削平した感じもなく自然地形に近い。
 うーん、本当に城なのかなぁ。
 

ところが、山頂近くの南斜面、
ちょうど、尾根と尾根に挟まれた谷部に穴がある。
狼煙の跡か??
でも、木を抜いた跡とも考えられる。


でも、このあと結局、
当地を城と判断したので、狼煙跡としておこう。



さて、山頂から尾根を東に下ってみる。
あった堀切(東)だ。
対岸の壁が甘いが、まちがいない!

写真の左が主郭である。
左側の壁は3mほどある。
かなり加工されている。
東峰続きを警戒したのだろう。



堀切りを西に向って撮影。
あまり、迫力が伝わらない。

堀切は両袖共に縦堀になっていない。
単純に尾根を断ち切っただけだ。
 

 再び主郭に戻り、北に続く尾根へ。

堀切(北)だ!
主郭ほどの高さはないものの、こちらのほうが鋭さがある。
キッチリした切岸となっている。
 


この堀切を主郭方面に向かって撮影。
美しい。
この堀切も、両袖を竪堀にしていない。

 


なお、登城ルートで使った南の尾根続きに遺構はない。
西側は急峻な尾根であるため、堀切は設けず、
切岸のみで終わっている。

CS立体図上に、遺構を落としてみた。
城ということで、良いだろう。
かなり急ごしらえの、狼煙台と言ったほうがイメージしやすい城だ。
いずれにしても那須町に新城発見だ! 
 
芦野城の関連施設だとすれば、狼煙台と考えることが穏当かもしれない。
遺構は明らかに北方面を意識している。
ただし、芦野とはかなり距離(5km)がある。
ここで狼煙を上げても、山にはばかれ見えないかもしれない。
であると、なんだ??

北の関ヶ原の徳川軍の基地とも言えるが、この発想はなんともショボイか。。。。





新城確認!烏山城北の遺構   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉒CS立体図で見つけた場所  烏山城北の遺構   2024/04/26
■国土地理院 CS立体図より
 
烏山城の峰の北端に遺構がありそうだ。
フェニェクーティさんもご存じだったCS立体図の怪しい陰影。
今日は連休前最終日。
午後休取って、早速行ってみるか。


 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


目的の北の遺構には、麓を走る道路に車を留めて直登となる。
 ◆YAMAPより

 後で気づくのだが、
の地点で、麓の朝日観音堂、東江神社方面から?の道と合流する。
確かめてはいないが、しっかりとした道なので、
こちらから登って訪城した方が、よいかもしれない
 


◆YAMAPより

さて、左図のところまで来たら
早速堀切(図では南側)に出た。
写真は、斜面を下る竪堀である。
両脇に竪堀が落ちる。
堀切の峰部分はちょっと破壊されている感がある。

(図の破壊?と書いてある所)

 


昔は土橋だったのであろうか?
ちょっと判断に苦しむところである。
 

 ◆YAMAPより

主郭内はほとんど加工をしていないので、
そのまま北に向かうと、北限の堀切があった。
堀はかなり埋まっているようであるが、
堀の南切岸は、非常にしっかりしている。

結局、遺構はこれで終わりのようだ。
南北に続く峰続きも追跡調査したが、遺構はこれだけ。
2本の堀切に囲まれた部分が主郭となる。
近隣に、那須六郎実隆の分知であった「滝田館」がある。
当城が、この館の付け城であった可能性も無くはない。
ただ川べりの館と当地が若干距離があるのが、とても気になる。
また、詰めの城にしてはあまりにも簡素すぎる。

ということで、当方の私見としては、当城が烏山城と峰続きであるから、烏山城に関連した物見施設であったと考える。
この遺構の北に、堀のように東西に走る谷があるので、ここを烏山城北限として、監視にあたったのだろう。
ただし、遺構の状態から、近世烏山城時代には使っていなかったのではなかろうか?
那須氏が烏山に在城の頃の遺構、と管理人は考えている。

 


新城確認!久野又城 (くのまた) 仮称  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉓CS立体図で見つけた場所    なんでこんな山奥に? 2024/4/27
■国土地理院 CS立体図より
本ページのお客様 けいぴん さんからのCS立体図情報。
確かに、怪しい陰影が。。。




 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 

 この城は何しろ山深いところにある。
林道でかなり城の近くまで行けるのだが、
ちょっと不安。
なので、町道南無地蔵尊の前に車を置き、
そこから先は、徒歩で臨むことにした。

まず、田んぼの農道を南に向かう。
 

 農道は、やがて林道に変わる。
歩いてみると、軽トラなら難義無い道である。
でも、伐採した木の枝が結構落ちているので、
普通車はちょっと躊躇するな。
バイクだったら、全く問題ない林道だ。

しかし、あいにく今日は小雨の予報だ。
 

 ◆YAMAPより

林道は、左写真でドン付き。
ここから目的の城跡、
標高376m峰は、直登。

管理人は、

●の
左横の尾根にとりつく。
 

◆YAMAPより 

まで登ると、
写真のような光景が!
土塁か!?
と思ったが、作業道の土寄せだった。
 


ここから378m峰頂上に向かうと、

大きな堀切
に出くわす。
しっかりとした堀切で、
完全に南続きの尾根を遮断している。
 

 両脇は竪堀となっている。
竪堀はそんなに長く続かない。
管理人は確信する。
間違いなく城跡だ
 

 堀切の壁である。
一段目の向こう側に主郭が見える。


 ◆YAMAPより

主郭まで上がった。
しかし、主郭は加工が甘く、
ほぼ自然地形といってよい。



 
 しかしながら、部分、部分に遺構を残す。
特に、主郭より西北尾根続きには、曲輪を配す。

左写真は、その中の桝形虎口である。
この城にしては非常に手が込んでる遺構だ。
 


 
◆YAMAPより 主郭から西北に降りたところに、
明確な切岸がある。
その先は、
細い帯状の曲輪が山腹を取り囲む。
ひょっとすると、
全周堀だった可能性もある。
目立った遺構はこのぐらいである。

さあ、帰るか。。。。


行きと同じ斜面を直降する。

しかし、この山には、
恐ろしいくらいショウジョウバカマが
咲いていたようだ。
写真は花落ちした後。
帰るころには日が出ていた。
大汗をかいてしまった。
温泉でも入るか。

山深かったが、
獣、虫、ヒルの
被害には会わなかった。
 情報元のケイピンさんもおっしゃっていたが、周辺には桜田、羽黒、青木要害という城がある。
それらの中継基地として、この城が作られた事は十分理解できる。
しかし、こんな山中に、この城がないとホントにダメですか?って、築城者に聞いてみたい。
みんなココから見えるけどね。。


新城確認! 所野城(仮称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
㉔CS立体図で見つけた場所    旧・小倉山森林公園 2024/5/12

■国土地理院 CS立体図より

私も気づいたのだが、日光市のど真ん中にCS立体図の怪しい陰影がある。
しかし、先に「春の夜の夢」さんが城跡と確認されていたので、その情報から当方も訪城してみることにした。
 



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


ここは「小倉山森林公園」として日光市が管理している。
ところが、あたりは御覧のとおり。
かつてあったテニスコートは無くなっている。
事実上、このエリアは廃園となったのだろう。

駐車場だけ、なぜか残っていて、
その先のテニスコート方面は立ち入りが禁止されている。
 

さて、これは1976年の国土地理院の航空写真である。
中央のこんもりした丸い林が、所野城。
所野城の西斜面は、きれいに整備されているのがお分かりになろう。
さらにその西には、現在家が建つ分譲地が見える。
つまり城の西側は大きく改変されたと考える。

 


 
さて、主郭である。
きれいで、しかも太い大きな土塁で虎口を形成し、土橋で渡している。
しかし、腑に落ちないのが広い土橋の位置である。
せっかく折を持った大きな土塁があるののに、土橋に横矢がかからない。
本当に往時からの虎口であろうか?とちょっと疑いたくなる。
公園整備時に作られてしまった可能性もある。
 

 西の堀の中に入り、コーナー部を見上げる。
このコーナー部はかなり土塁が太いので、矢倉台の可能性もある。
 

 城の南面は崖である。
何度もがけ崩れが繰り返された感があり、
こちら方面からの敵の侵入は、まず不可能である。
 

 調査はこれでほぼ終了。
左足に違和感を感じたので、ズボンを履き替えた。
ヒルが4匹、靴下内に侵入していた。
まだ、血を吸う前だった。
全員、お陀仏にさせていただいた。
 

 この城の近隣には立ち寄り温泉がある。
これは「日帰り温泉 ほの香」
4人ほどしか入れない小さな風呂だが、内湯、露天がある。
誰もいなかったこともあり、最高だった。

料金は600円。(2024年現在)

公園造成もあり、かなり破壊されている城のようだ。
航空写真でもわかるように、主郭西面はかなり破壊されていると考える。
現在の西面には、人工的につつじが植えこまれている所も、その証拠である。
西面は東面に比べ傾斜が緩いので、かつては堀が回り込んでいた可能性もある。
今まで、城跡と認められていなかったようなので、迷わず破壊されたのかもしれない。
逆に主郭東面は、旧状をなんとか保っている気がする。

ここ周辺は完全に日光勢力の懐である。
遺構は、横矢や太い土塁の存在など、かなり戦国に入り込んだ感が強い縄張りである。
戦国を切り抜ける日光勢力オリジナルの発想の縄張りなのだろうか?
可能性としては、日光勢力と壬生氏が結びついたとき、壬生氏が介入し整備されたものともいえよう。

ところで、ここを対上杉として、徳川の城とする方もいるようだが、私はそう思わない。
対上杉勢力だとしたら、退路である南側に、川や急崖のこの地を選ぶはずがないと思うのである。





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㉔CS立体図で見つけた場所    なんでこんな山奥に? 2024/4/27
■国土地理院 CS立体図より
本ページのお客様 けいぴん さんからのCS立体図情報。
確かに、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


大里城にメイリオは、麓の道路の家跡地前に車を駐車させて頂く。
管理人は、写真正面の林=尾根から取り付いた。
   メイリオ
   メイリオ
   メイリオ
   メイリオ
   メイリオ
   メイリオ
   メイリオ
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確かに、怪しい陰影が。。。



 

【解説】   結果がこれである。
  現地縄張り図



 
 


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管理人は、写真正面の林=尾根から取り付いた。
   メイリオ
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確かに、怪しい陰影が。。。



 

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管理人は、写真正面の林=尾根から取り付いた。
   メイリオ
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