寄居町 2
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない、または城とするかどうか判断の迷う物を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
金尾山要害城 | 島田屋敷 |
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※2021年 10月9日にホームページが破壊し、レポート記事が損失してしまいました。
よってレポートを再構築しました。
本城は最南端の郭が、道路建設により失われております。
観光つつじ園の城 2021/03/06 |
【解説】2021/10/10改稿 主郭は最頂部。 最北に高い矢倉台がある。 現在は展望台である。 主郭を西に下ると枡形門の痕跡がある。 現在登山道でストレートに通されてしまっているが、ここで一折れさせていたのだろう。 枡形門からさらに西に下ると浅い堀切が残る。 北面に竪堀が走る。 竪堀は当城で最大のもので、竪土塁を伴う。 横から見るとこのような感じ。 写真では伝わりにくいが、現地で見ると、非常にしっかりしたものだ。 竪堀を下から見上げる。 所変わって、今度は主郭より南に下る。 ゆるい緩傾斜となっているが、つつじ園で造成されてしまった可能性も否めない。 南郭とでも呼ぶべきか。 現在の状況である。 1995年にこの城を訪れた時は、ここは公園となっていて綺麗に整備されていた。 しかし、現在は荒れ野原で草ぼうぼう。 この藪の中には、管理人の記憶を証明するかのように、朽ちた看板、遊具やベンチの残欠があった。 さて、この南郭は、途中で道路の崖となって消失する。 「あら????」 1995年調査の記憶では、この郭はもっと広かったと記憶している。 ということで、現地にある図面を見ると、図面の中程に線()が入っている。 そうなのだ。 この矢印に沿って、道路建設で遺構が削られてしまったようだ。 なんとも残念である。 ところで、この城で奇妙なのは、北、西面にだけ竪堀があることである。 これらの斜面はとても急斜面なのに、緩い南面に全く竪堀が無い事はおかしい。 管理人は、かつては①に対しては②、③に対しては④、⑤に対しては⑥ の竪堀があったのでは、と考えている。 ④は虎口と称される資料が多いが、管理人は竪堀の頂点の残欠なのでは? と思っている。 どうして南面に竪堀がないのか? 考えられるのは、当地がつつじ園であることだ。 ツツジを植えるための造成で、 南斜面の竪堀がすべて埋められてしまったのではなかろうか? 古い航空写真をあたってみたが、よくわからなかった。 このようにかなり金尾山要害は破壊されてしまった城と言って良い。 しかも、つつじの咲く時期は人も多くなるし、おまけに入場料まで取られる。 お城ファンは、行くなら冬をお薦めする。 |
【既存縄張り図の評価】 本編にも書きましたが、④を虎口だとする資料がほとんどです。 が、わたしは破壊された竪堀の残欠だと思っています。 |
!旧図 1995/01/15 |
【お断り】 本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難がある。 なので、ご参考に。 今後、もし機会があったら、改訂したいと思う。 【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。
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島田氏屋敷(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
ちょっと、違うな・・・ 2021/9/26 |
本寄居町に「島田氏屋敷」なる遺構が残ると聞いてやってきた。 島田氏は近代まで続き、この地を治めていたそうで、現在も末裔の方?がお住まいのようである。 確かに土塁は残るが堀が全く伴わない。 よって、中世まで遡るものかどうかわからない。 豪農は近代、自分の土地を 「区画」 という意味も含め、土塁で囲んだ。 栃木県にもこのような農家は多く、島田氏屋敷もこの類と見ている。 土塁はL字型に残る 南にゆっくりと下る土塁 北側の土塁 南に若干下りながら降りる土塁 |
【既存縄張り図の評価⠀】 みんなL字の土塁を書いているが、城という意味で作られたものでは無いと思ってます。 |