埼玉県の中世城郭 



 

寄居町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらないまたは城とするかどうか判断の迷う物を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 『桜沢(砦)??sk』 まぼろし城?』  花園城 第1回~10回  花園御岳城 用土城(写真掲載のみ) 池田氏陣屋  


『桜沢(砦)??sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 ダメでしょ、ここ  2020/08/29
 
寄居警察署の裏山、八幡山山頂が ”桜沢(砦)” 』という。 (※資料)

鉢形城の支城、または監視目的で築かれたということだが、資料からは遺構は期待できそうにない。

しかし、この山から鐘撞堂山までは、綺麗なハイキングコースとなっているらしく、夏の暇つぶしも兼ねて登山することにした。
 



国道254が寄居街に近づくと、急に桜沢(砦)の山容が見えてくる。















砦までの登山口は、八幡大神社境内横にある。

 


神社脇の公民館には、広い駐車場がある。
ここからスタートである。









ハイキングコース入口には、立派な導入標があるので、迷うことはない






















登り始めて15分ほど。
八幡山頂上手前の小ピークに到着。

いちおう、ここからペンとスケッチブックを取り出し、
スケッチを開始することにした。

だが、人工的な切岸は確認できない。。。。













小ピークから地形は一度降下する。
八幡山頂上へは、細い鞍部が繋がっている。




















道は少し登りになり、八幡山頂上近くになるが、
遺構らしきものは、やっぱり何もない。















俺も歳とったなぁ。。。

頂上に着いた!!
しかし、周りは見事なまでの自然地形!!






資料1※では、写真右手に小さな曲輪がある表現になっている。
しかし、これは自然地形でしょ。
曲輪でない。


周囲も歩き回ってみたものの、結局、人工的な加工痕は見いだせず。

結局、
桜沢(砦)には遺構が無いと言う結果になった。







無理くり図面にしても、これが限界。
これ以上描いたら、私は『嘘つき』になってしまう。
 

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ついでだから、立派なハイキングコースなので、鐘撞堂山近くまで歩いてみた。





 おおっつ!我が社も立派な事をやっていたものだ。。。









途中の山からは、たしかに鉢形城方面が確かに望める。



















結局、鐘撞堂山までは行かず、少し手前で来た道を引き返し、帰路につく。
帰りに、寄居出張時によく来ていた飲み屋の玄関先から桜沢(砦)から撮影した。
その時、ちょうど秩父鉄道が通ったのである。













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(追記)
実はこの山にも、花園城/花園御岳城に広がる、細い階段状の段々が麓まで続いている。
よく観察すると、この細い段々の境界を守るように、金属製のバリケードが張られている。
・・ということは、やっぱりこのあたりの山の細長い段々には、何か農作物が植わっていたのだろう。

花園城/花園御岳城含め、これら段々遺構は、城の物ではないことが明白となった。
いったい、何を植えたのだろう???・・・

        ◆畑横のバリケード                    ◆細い段々
       
    

                           (完了)

  【評価】 明確な遺構なし
      ※『秩父路の古城址 中田正光著 有峰書店新社』では、 ”八幡山城” の項に縄張り図も掲載されているが、当ホームページでは城とは認めない。 



『まぼろし城?』(俗称)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 かんが言うにはな、そこは城では無いというてんねん。』 『ん、ほな城とちゃうかぁ~byミルクボーイ 2020/04/04   

  花園城で出会った地元の方がおっしゃるには、城の東方1kmに、なにやら城郭遺構があるという。
 
 彼が文化財担当者に相談したところ、”神社の跡だ!”  と言われたそうだ。
 しかし、彼は納得していないご様子。
 そんな思いもあり、彼は当所を ”まぼろし城” と呼んでいる。(今回はこの俗称を使用させていただいた)

         ◆国土地理院電子国土より

 それを聞いて第7回の時、管理人は、中城研の仲間と当地を訪れていた。
 みんなでパッと見で 「城とするにはちょっと・・・」 という結論を出している。

 
しかし、この時は縄張りの精査をしたわけでもないので、ちゃんと図化をして再評価したいと考えた。


早速、花園城第四郭から、まぼろし城に向かう。

花園城から当地に向かう途中は、結構草刈がされ、手入れされている場所がある。
まぼろし城を教えていただいた方には 「今後、花園城整備の話もある」 ような事も伺っていた。
その前哨戦であろうか?







 _____________________________


  さて、まぼろし城に近づくと段々が見えてくる。
  とりあえず最頂部まで登り、そこから調査を始めた。


 
  ◆主郭内部





しばらく踏査すると、
主郭から同心円状に段々曲輪が広がっている事が分かってくる。
同心円の段の切岸は、幅の広いものではないが、非常にしっかりしている。
この辺の様子は、花園城の西側斜面とそっくりである。


     






石垣も回っている。

だが、石垣は全周にあるわけではなく、

花園城方向の緩い尾根筋に顕著である









ちょっとボケてしまったが、このように段々石垣が登る。

















 ここまでで、踏査の結果をまとめてみた。

 【調査結果】

 ①=畑の可能性
  畑にしては、日の当たらない北側まで平坦地が回っている。
  これは畑としては奇異だ。
  しかもこの段々は不便な山のピーク付近だけにある。 
  農作業をするために、わざわざここまで登るというのか?

 ②=神社の可能性
  必要以上にある輪郭。
  神社であれば意味が不明。

 ③=城の可能性
  石垣が緩い尾根方向のみ顕著。
  守る方向があるようである。
  東面を除き、全方位明確な切岸が存在する。

 ④=古墳の可能性
  ここまで細かい何段もある段築が、古墳としてあるだろうか?
  事例では2,3段のような・・・
  管理人は知識を持ち合わせてない。



 よって、管理人は中城研メンバーと出した当初の考えを一転、
 
    城の可能性が高いと結論付けた。
 よく見れば、位置的に 花園御岳城ー花園城ーまぼろし城 の綺麗な3点トライアングルで領域を警戒していた事も考えられる。

 ただ、まぼろし城は東側の防御が極めて甘いことから(石垣、土塁、堀がない)、花園城を攻撃しようとする「陣城」の可能性もある。
 かつての鉢形城攻撃の時、秀吉方の陣城と考えられる遺構が、鉢形城と長久院川を隔て存在した。(通称:八幡台)
 これに相応する花園城の向城なのであろうか?



 
 
取り消し線で書いたところは2020年5月7日までの見解。

 最初はそう思っていたが、まぼろし城の後に花園御岳城を調査してみて、考えが一転したのだ。

 やはり、この段々は花園城/花園御岳城、そして、まぼろし城含め、 『畑または他の何か』 で作られた可能性が高そうだ。

                   
段々は城の遺構ではない。

 よって、”まぼろし城” は城では無い、という結果になる。

 詳細は花園御岳城の項でお話したい!

 


            ◆電子国土より・・・花園城3点トライアングル

 
 

                                              (おわり)
 

花園城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 ◆マウスを乗せると赤く表れるのは、木橋の想定位置です。(スマホの方は触るとページTOPに飛んでしまいますが、ご容赦ください)
      
  

  完成! 概要解説 2020/05/08     
 【解説】

 世間ではコロナで外出自粛が騒がれる。
 
 こんな状態いつまで続くのだろう。
 ずっと続くのか、このあと収束するのか・・・・わからないところが、怖い。
 先が見えない事にビクビクしていても、ただ時間が流れるだけなので、花園城の縄張り図を浄書することにした。

 ここでは、第1回~11回までで、他の資料には書かれていない(?)独自の見解をまとめておきたい。


 ①区別のつかない石垣と段々曲輪 第7-2回、9回、10回
 
 この城には石垣遺構がたくさんある。
 周辺の城に多い緑泥片岩の扁平石を積み重ねたものだ。
 主郭から四の郭に残る物はおそらく往時からのものと、最初は喜んで図面に描いていた。

 ところがである・・・・
 主郭の南西に段々の曲輪群があるが(縄張り図に『段々の曲輪』と記載)、ここにも、主郭周りと全く同じ形式の石垣が多数残る。
 しかしながら、この段々の曲輪群は、昭和35年(1960)の航空写真には、思いっきり ”畑” の様に写りこんでいる。
 ◆電子国土より

 つまりは、ここの石垣が 『畑の区画として近代に作られた可能性がある』 というわけだ。
 確かに現地調査をすると、段々曲輪には肥料の袋が落っこちていたり、傘が落ちていたり、昭和になって日本に入ってきたシュロの木が生えていたりする。
 畑として利用していた事は、これらの遺物?から見ても、紛れもない事実である。
 よって、これら石垣を中世まで遡る事に疑問視する人は多い。
 既存の縄張り図には、この段々を記載している方は少ないのだ。
  ◆段々曲輪に落ちている遺物?


 一方で、
    ”こんな細長く狭い幅では、地面に生える作物の収穫量は上がらないし、柑橘系の果実を植えたとしても収穫できない”(埼玉のこのあたりはみかんが有名)とか・・・
    ”畑なら、わざわざこんなに沢山石垣を組まない” とか・・・
    ”これら段々曲輪がなければ、主郭西の防御が超手薄になってしまう!” とか・・・・
 この段々、石垣を中世からのものだとする意見もある。
 
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 改めて花園城の縄張り図を見ていただきたい。
 花園城の縄張りはかなり手が込んでいる事は皆が認める所である。
 ここの築城者は、これだけのテクニカルな遺構を創造できる、キッチリとしたプランナーだったと考える。
 そのような築城者が、なぜ主郭周りだけこのような段々構造を取ったのか?
 他の二の郭~四の郭までには、このような細かな段々構造は無い。
 しかも、だらだらと山麓近くまで遺構が続かない。
 よって、この城の築城コンセプトを考えると、主郭南西の段々、石垣遺構は
かなり異質と言わざるを得ない。
 確かにこの段々曲輪がないと、主郭南西方面の防御が甘いとする方もいる。
 
しかし、元々あった城の遺構を破壊し、このような段々にする事も可能なのだ。

 段々曲輪は元々あったのか?それとも畑のために造成してしまったのか?。。。

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 日を別にして、管理人は隣の山、花園御岳城を26年ぶりに再踏査した。
 この城は、花園城を補佐する役目として作られたというのが、大方の意見である。
 山上には、見事な遺構が展開し、後北条時代に作られた可能性がある。(花園御岳城の頁で解説)

 ここで分かったことがある!
 ここにも、花園城と同様に、石垣を用いた雛壇状の段々曲輪群があるのだ。
 これらは陽のあたる南側の斜面のみにあり、ほぼ山頂から下方に向かって延々と続いている。
 しかし、これらは城の残存遺構とは全く結びつきがないと言って良い。
 防御の段々であれば、防御方向から考えて、花園城のように、もっと西面全面に広がりがあってもおかしくない。
 しかしそうではなく、防御としては、余りにも中途半端な配置となっている。(花園御岳城の頁で解説)

 よって管理人は、花園周辺の山一帯に分布する雛壇状の段々は、耕作目的のために作られた としか思えなくなった。
 何を植えたのかは不明だが、この周辺の耕作スタイルだったのではなかろうか。

  管理人は花園城の段々に、近代の耕作造成説を採る。

 ただし、縄張り図では ”現状の姿” ということで図面化し、網掛け表現とさせていただいている。


 ②曲輪間の連絡を木橋でつなぐ 第4回
 
 第4回で書いたのが、”木橋について” である。
 主郭~四の郭の堀切間の連絡は、堀底に一度下し、再び登らせる形もあったろう。
 しかし、
堀切を隔て、妙に両岸の高さが揃っている所がいくつかある。
 このような場所は、
木橋の可能性があると見た

 木橋のありそうな怪しい場所を縄張り図面上に
で示す。
 冒頭の縄張り図全体でも、マウスを乗せると現れる。(※注意 スマホだとページが冒頭に戻ってしまいます)


 候補は四ヶ所だ。
  A 主郭ー二の郭
  B 二の郭ー三の郭
  C 二の郭下ー三の郭下
  D 三の郭ー四ノ郭


 このうちBは距離もあり、間違いかもしれないが、
 結構な確率で木橋の存在が考えられると思う。

 A,Bについては、橋の片側に、補強とも思える石垣が存在する。
 C,Dについては橋に対し、横矢が掛かるシチュエーションが、全く同じである。





 ③登城路は2つ?と武者隠し 第7回ー2
 
 さて、登城路はどこであろう?
 今一番よくわかるのが、
三の郭下の登城路である。
 
 
 
 道形が非常によく残っており、
 石垣に囲まれた ”武者隠し” を併設した道と管理人は考えている。
 しかも、竪堀で横移動をさせないように、道筋を規制する。
 とても工夫された城道である。











  


 しかし山麓に近い所で、道が諏訪神社方面に向かってしまう。
 これが、当時からの道なのかが、どうも怪しい。
 無理くり神社側から登れるように、後世に改変されている可能性も示唆しておこう。

 









  もう一つ。
 
主郭南下にも武者隠しがある。
 ここの構造が、上記の三の郭下とほぼ一緒なのは、第7回ー2でも述べた。
 よって、ここにも登城路があった可能性がある。
 しかし、残念ながら三の郭下のように道がたどれない。
 ここも後世の改変にやられている可能性大だ。










  

これらの明らかな ”武者隠し” を持っている城は、埼玉では比企周辺が多い。
花園だけではない。
花園御岳の他、 そう、杉山城にもある。
全く同じように通路横に、兵士が隠れる場所を作り虎口を守る構造だ。
通過する敵兵のサイド、背後を突く攻撃を有利にしている。

花園城と同じ構造を持つということは、
やはり杉山城も、後北条の息が掛かっていることは言うまでもない。
(杉山城上杉築城説に反論したいだけだが。。)











 ④階段状の壁
 
  


 主要部周辺の割と高い壁に、人一人が通れるかどうかの細い平坦地が走っている。
 気にしていないと見逃してしまう遺構だ。
 最初は所謂武者走りだと思っていた。
 しかし、武者が行き交うほどの幅がない。
 有って、せいぜい1mだ
 行き交う人を考慮していないのだ。

      ・・とすれば何だ??






 ・・・・と思ったときに頭に浮かんだのが、鉢形城、小倉城の階段状の石垣である。
   
壁の補強ではないか?
 人の移動を考慮しない遺構の意味が、壁の補強であれば説明がつく。
 ただ、鉢形、小倉の例は、曲輪内部に向かっての階段状の石垣である。
 ここは逆に、城外方向に向かって階段がある。
 これが他例とは違う所だ。

 管理人は、是非この遺構周りを発掘してほしい。
 やはり
階段状の石垣が出てくるのではなかろうか?

 ちなみにここだけではなく、管理人はこの城のほぼ全山の壁面にも、石垣が張られている!と思っているが・・・・。

 ⑤城下町

 花園城の城下はどこであろう?
 一般的には、花園城南麓と荒川に囲まれた帯状の空間、『善導寺』 『本宿』 付近が候補とされているようだ。

  ◆電子国土より








  しかし、管理人が目をつけたのが、花園城の西山麓である。
 
花園城の西先端から南の麓、荒川に近いところに、箱石舘、藤田氏舘がある。

 また、花園城西山麓には、『宿』『下宿』『蔵屋敷』などの城郭関連地名が散らばる。
 一帯は、御岳城の南山麓でもあり、花園城、花園御岳城、荒川・・・
 これら3つに囲まれたエリアの方が、城下町としてふさわしい様に思えるが、いかがであろうか?
 
                    
                        






◆花園城周辺図 電子国土より



 


 
 ダラダラとしつこくなってしまったが、花園城については以上で終わりにしたいと思う。
 聞く所によれば地元の方が保存に乗り出そうという話もあるようである。
 素晴らしい自然と、素晴らしい遺構・・・・

 花園城は埼玉県の中でも1,2位を争う保存状態の良い城だ。
 今後に期待して、ペンを置きたいと思う。

                                             
 (おわり)
 【既存縄張り図の評価】
段々を城の遺構と考える人もいるようですが、検討の結果、これは近代のものと判断しました!
これを遺構と考える方!やめましょう!!(花園御岳城でも改めて解説します)



  浄書に色付け開始 2020/04/18   


 

コロナで自粛のこのご時世。
城にも行けず、やることないから、浄書に色つけを始めました

こんな状態いつまで続くのだろう。











                                           (つづく)



  第11回  とんでもないもの補足調査 2020/04/04   

 
第10回以降、浄書を始めたが、どーしても記憶に曖昧なところや
『もう一度調べなきゃな』というところが出てきた。


コロナウイルスで不要不急の外出は控えるようにと騒がれる中、
やはり、どうしても気になる。

やっぱり出かけよう。。。。不要不急ではない、
『これは、
必要至急の外出なのだ!



 







・・・ということで、いつもの通り、善導寺


桜が満開の季節になったが、訪れる人は全くいない。














 こんなに綺麗なのになぁ~。
 本当にもったいない。


   





これまた、いつものように善導寺から花園城に向かう





















 

諏訪神社に到着。

ここでも桜が迎えてくれた



















 

 
     ※補足調査解説用縄張り図
                   




さて今日のお題は、主郭南方の山腹。
ここに石垣を描いている人が居るので、それを確かめに来たのだ。

果たしてその場所に石垣はあった。
平坦地を伴っていないので、おそらく往時からのものであろう。
こんなところに石垣を作る意味がよくわからないが、おそらく、上方からの城道に続く施設と思われる。

ここから30mほど南斜面を下ると、10日目で描き込んだ ”シュロの木の人家跡” に出る。
これで、この山腹は繋がった。

        


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山を上がり、再び主郭西の段々曲輪である。

見栄えは悪いが、段々曲輪も少しは写真を撮っておこうと思ったのである。



これは上方の段々曲輪の四角い張り出し。
写真に写りこんでいないが、ここにも石垣が回っている。
古いものなのか、新しいものなのか区別がつかない。

これが、この周辺の段は全部畑だ!と言われる所以である。



やっぱり、ここ段々の写真は面白くないので、これ一枚でやめた。




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さて、ここから再び主郭方向に戻る。


すると、前回は気付かなかったのだが、岩に水が染み出ている。
こんな山の上に水の手?だろうか。
結構出ているのでビックリした。














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管理人はこのあと、地元の肩に教わった通称 『幻城』 の調査に向かう。

これは、その途中で撮影した四の郭内部のゆるい傾斜地。
なんで整地していないのであろう?
いつも思って、通過する。

 


                                  (つづく?)



  浄書開始 2020/03/28    


 

コロナだ!雪だ!と城にも行けず、やることないから、

仕方ないので浄書を始めました。


皮肉なことですが、いままでやろうやろうと思いながら、
なかなか手が出なかったので、良い機会です。









                                           (つづく?)



 第10回 ほんとに、とんでもないもの 2020/03/15    

 花園城も第10回目の訪城となった。
 今日で大体終わる予定である。

 お題は言わずもがな、段々曲輪である。
 前回の続きである。




家を出た時にビックリ!

そう、寄居方面の山が一面真っ白になっている。
今日は天気が非常に良いものの、昨日は埼玉県下は、雨や雪であった。



      どうしよう・・・?








 段々曲輪が、ゲキ藪なのは承知のことる。
 藪の中の行軍は、雨露を大量に浴びる。
 雨露に濡れれば、自慢の ”フレックス縄張り図面” はイチコロだ。

      どうしよう・・・・?

   『行くの辞めようかなぁ、でも行こうかなぁ・・・・。』

 実は、こんな事で朝6時から小一時間悩んでいた。



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・・・・・・・・でも、結局、


    


 いつものように、竪堀① から侵入。
 予測していた通り、昨日までの雪、雨で、行軍すると、ものすごい勢いで滴が垂れる。

 ”フレックス縄張り図面” は当然中止。
 今までに描いた大きな縄張り図をスケッチブックに挟み、調査を開始することにした。
 こうすれば、書き込む時だけスケッチブックを開ければよいから、図面の濡れ被害は少ないだろう。


 ここでは、価値も無いので写真を撮ってないが、段々調査の途中、斜めに切れ込む段々を発見。
 これはおそらく、1960年の航空写真に映り込んでいた道だろう。(下写真)
               



さらにしばらく雨露と奮闘していると、段々の中にこんな物が。

   
   リン(燐)入りのマグネシウム(苦土)・・と書いてある。
   
肥料の袋だ!!

今はゲキ藪で想像もつかないが、明らかに、ここが畑として利用されていた証拠である。
このあたりは段の幅も広がっているし、だんだん段差がはっきりしなくなってきた。

ここまでくると、ちょっと城と結びつけるには無理が多いのでは?

・・・・と思った瞬間、主郭南斜面の調査は、ここでヤメにした。






















改めてスケッチブックを見ると、雨露でヘロヘロになりかけている。

昔、栃木県矢板市の『滝原台大溝』 という城郭関連遺構で、
雨の中、無理くり調査を行い、新品のスケッチブックを一冊ダメにしたことがある。

スケッチブック全体に水が染み込み、全体がヘロヘロになってしまう現象だ。

これ以上の強制調査は、危険だ。









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  スケッチブックを少し乾かして、今度は竪堀①より東の斜面、
 竪堀②
方向の調査に取り掛かる。
 ここには主郭南の様な細かな段はない。
 行軍すると、明らかに石垣が目に入る。
 四角く囲んだ物や、スロープ状のものもある。
 なぜか ”シュロの木” も集中的に生えている。

 そもそも シュロ が日本に入ってきたのは、近代と聞いている。
 昭和(30年代)に入ってからは、日本がいわゆる南国(ハワイ等)に憧れるブームとなり、
 観葉植物として民家の庭に多く植えられるようになったそうだ。
 よって、最近の家に植わっている所はなく、
 ちょっと古めの家屋に植わっていることが多いそうである。


 このことから管理人は、当地は近代の人家址とみた。

 
城の遺構ではなさそうだ。
        




 たしかに残存遺構の石垣は、城としての機能が希薄。
 遺構とは考えづらいと思う。


 先ほどの畑の段の斜めの道が、何故かこの人家址の方向に向かっている。
 畑はここの人の家の物だったのだろうか?

 まあ、こんなもんでいいでしょ!この辺は。




苦労して10日も足を運んだ花園城。
ふりかえって見れば去年の11月からこの城に通い詰始めた。
今日で、ほぼほぼ満足に調査は完了したと思っている。

これからは浄書に入るが、完成はいったい、いつになるか?
まだまだ花園城は、わたしの中では終わっていない。   
                        











                                       
 (つづく)
   



 第9回 ほんとに、とんでもないもの 2020/03/06
 
 

 調査も9日目となった。
 いい加減にしたいところであるが、終わらないんだから仕方ない。

 きょうは主郭南下、気が全く進まない段々の調査だ。
 第7回の中城研の方々との合同調査で、 『城郭遺構として無視できないもの』 とした場所だ。
 
                
 
 花園城は二~四郭下は、結構、遺構がハッキリしている。
 しかし、この主郭下だけは、何故か段々の連続となっている。
 他では見られる 『武者隠し』 も、ここには無い。
 よって、どこまでを城の遺構として捉えるのか?、縄張り調査が人の解釈によってバラバラになる部分である。

  ____________________________________

  
さて、きょうは追跡戦闘車2号で出動。
言わずと知れた善導寺にバイクを停めさせてもらう。

しかし、いい天気だ。
でも、風が強い。
いきなり、花粉症発症!
おぉ、目が。。。。
鼻も出てくる。。。




  _____________________________________________

 
 早速、主郭下南の段々曲輪に紛れ込む。

 
 

言わずもがな、ここは近代に畑となっていた場所。
放ったらかしの畑の荒廃地に密集する小竹の嵐となっている。
歩けば、小竹の枯葉粉が舞い、喉、鼻を襲う。
あっという間に喉が痛くなり、声も出づらくなってきた。
涙と鼻水と汗と、3者が入り乱れた城見学だ。


   


 
何段目かで、自分の居場所がわからなくなる。
その度に歩き直しだ。
段々はなにせ特徴がなく、感覚を狂わされる。

小竹は素直にまっすぐに伸びていれば歩けなくもないが、
なにかの重みで小竹が横倒しになると、もうどうしようもない。
このような場所は、這いつくばって行軍する。
ほふく前進だ!

ド藪を行軍するたびに、無駄な体力、気力を消耗していく。

傘がなぜか落ちていた。
こんなド藪に誰か来たのであろうか?
俺のような人が居るのだろうか?







    _______________________________________

 こんな場所であるから、大した写真も撮れない。
 激しい調査がお分かりになろうか?
 とうとう縄張り図面も破れてしまった。
 この時点で意気消沈。
 
 飽きた。。。。。。

 きょうは、帰ろう。。。。

                       


                                      (まだ つづく)
    
   



 第8回 とんでもないもの 2020/03/01
 
 

 調査も8日目となった。

 前回は中世城郭研究会の例会となったた。
 ほとんどの方が花園城を書き上げている方ばかりだったので、
この日の踏査会は、彼らの花園城に対する疑問点の確認だった。
 あわせて、当方の今までの調査見解をトスする形となった。

 このため、管理人の縄張り図の進捗は無かった。


 第8回の今回は、そのリベンジである

 

 

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 今日は快晴。

 絶好の城日和である。
 しかし前回調査でやられた花粉症が、やっとよくなってきたのに悪化しそう。。。。。(不安)

 追跡戦闘車3号車(新たに登場)をいつもの善導寺に置き、登城口の諏訪神社に向かった。

      

 今日は3つの御題をもって調査する。

   第四郭周辺の確認 郭下の曲輪と、東西両サイドの堀切の確認。

 主郭~第四郭の北斜面の遺構確認

 主郭南面の段々曲輪の確認(できるところまで)

 

 である。


    _____________________________________________



第四郭の周辺調査


     





第四郭は最東の郭である。

当城最大の堀切を設けており、ここより以東に遺構は無い。
よって、当城の最外郭となる。。

















 


第四郭南斜面には大きく2つの曲輪(四ー①、四ー②郭)がある。

最頂部から四ー①郭へ向かうには、曲の輪真ん中の虎口を下る。

この虎口の特徴的なところは、なぜか、浅い竪堀が並走している所である。

これが何とも不思議。
浅い竪堀は何のためにあるのだろう?
防御のためなら、こんな無駄な竪堀を削除して、細い通路状の坂虎口にした方が良い。

しかし竪堀が必要だった。。。
     
・・・という事は、塹壕ではなかろうか!

第5回で書かせていただいた 【武者隠し】 である!
ココも浅い斜めの堀内に城内兵を配置し、
向かってくる敵を正面、背後から敵兵を迎撃する仕組みなのでは?と考えている。

ちょっと浅はか???

       


 


浅い堀のある虎口からは、東に向かって城路は下る。

すると、第四郭から派生する太い土塁にぶつけられ、南進、四-①郭に入る。。

ここは所謂大きな枡形門となっているのだ。


四ー①の曲輪の、西端には横矢状の飛び出しがある。

その周りの土塁、地面の凹凸から、ここも枡形門であることがわかる。

城路はさらに四ー②郭に向うのだが、登城路は崩れてしまっているようだ。





 四-①郭縁辺部には、石垣が結構立派に残っている。
 相変わらず荒削りの石垣だが、曲輪全体に巡っていたと考えられる。

 



 第四郭の堀切は、この城の最大の堀切である。(下写真)

 岩盤の削り出しで作られた堀は、途中幾つかの堀内障壁もある。

     


  

四の郭の堀切を、北から望む
手前に土橋があり、四の郭と城外を繋いでいた。


   


















   

これは、堀切の中から、四ー②郭の曲輪を撮影。










第四郭堀切は、四-②郭最南端まで来ると、
急速に堀幅を変えて細くなる。
たどってみると、それは麓の諏訪神社横まで続いている。


竪堀が異常に長いのも、この城の特徴である。
 













    ___________________________________________

主郭~第四郭の北斜面の遺構確認

 城の北側斜面であるが、近代に大きくえぐられているようで、
 三の郭、四の郭下の曲輪痕などは、崩れの影響からできた物なのか?判断に苦しむところがある。


 
 二の郭の北斜面に沿う竪堀は、
 図面の書き手によっては3重となっているものもある。
 しかし、真ん中の2本目は本当に竪堀なのか??

 いやいや、管理人は自然の谷と見ている。

 それよりも大切なことは、
 3本目(西側)のちょっと薄い竪堀は、尾根を潰している所である。
 尾根上に竪堀を配し、登りにくくする配慮だ。
 多分間違いないだろう。
 このような遺構は、後北条氏の大築城や、天神山城にもみられる。

 


 主郭の堀切に続く竪堀は、斜面にしばらく続くものの、伐採した木が投げ入れられていてどこまで続くのか確かめようがない。


  __________________________________________

主郭南面の段々曲輪の確認(できるところまで)

 ◆段々の石垣

さて、一番見たくない遺構に取り掛からなければならない。
でも、上から一段一段見ていくしかない。
この段は、山の西端にある浅い谷を基点として構築されている。
この谷より北には段々遺構は無いとみている。

西側に近いところの段は、幅約1m or それ以下である。
ところどころ石垣で側面を固められている。
下方に行けば行くほど、石垣が多くなっているような気もする。
とにかく藪が激しいので、このヤブを削除したいものである。
同じような遺構を右往左往しているうちに、時々、自分がどこにいるのかわからなくなる。

今日は朝8時から6時間近く歩き回っている。

        つかれた・・・・・

今日は上から7、8段書いて、帰宅する事にした。


   ________________________________________________


 段々の調査途中、中城研の2名とはちあわせた。
 先週踏査会に来れなかった人達が、リベンジに来たそうである。


 しかし、城見学というのは、皆と話し議論するのも楽しいが、人の歩くペースや踏査場所を人に合わせなければならない。
 こういう束縛が、私はたまらなく嫌いなのである。

 単独調査の場合には、そんなものは無い。
 
自由に、自分の好きな場所を気兼ねなく歩き回れる。
 自分のペースで休みを取れる。
 食事もとれる。
 
こんなところが一人の調査の良い所。

 ・・・・というところでは、ある意味、前回23日の調査は辛かった。
 
危険が伴うのは重々承知ではあるが、私は一人での城見学が、やっぱり好きなのである。


                                       (つづく)
    

   



 第7回ー3 とんでもないもの 2020/02/23
 

 
 
①私の武者隠し説の確認
 
②主郭下の段々の曲輪の確認(城の遺構か?近代の畑の跡か?)
 
③地元の方が『幻城』と呼ぶ、城郭関連遺跡?の確認
 

  ________________________________________________________
 

 さて、お題の3番目。
 
 ③地元の方が『幻城』と呼ぶ、城郭関連遺跡?の確認




左は地元の方からの情報である。

図の位置に城郭と思われる遺構があるということだ。

この小ピークに、同心円状の石垣があるという。
























7回ー2で主郭下の階段状の段々が、
城の曲輪なのか?それとも近代の段々畑か?
で揉めたが、果たしてここはどうなんだろう?
もし、城跡であるならば、
花薗城とは完全に別の城である。

期待と不安に駆られながら、現地に向かった。












 
 行ってみると情報の場所には、情報通りの石垣があった。
 確かに何段か同心円状に広がっているようである。

 しかし、ここは花園城とは違い、
 まわりに一切堀や土塁などの防御施設がない。


 このことから、なんとも言えないところがあるのだが、
 城というには・・ちょっと・・・・・・・・
 というのが我々の結論であった。


 しかし、ここも図にしなければならないんだろうなぁ。
 疑わしきは罰せずだ。





                                       (つづく)
    
  




 第7回ー2 とんでもないもの 2020/02/23
 

 
 
①私の武者隠し説の確認
 
②主郭下の段々の曲輪の確認(城の遺構か?近代の畑の跡か?)
 ③地元の方が『幻城』と呼ぶ、城郭関連遺跡?の確認

 

  ________________________________________________________
 

 さて、お題の2番目。
 
 ②主郭下の段々の曲輪の確認(城の遺構か?近代の畑の跡か?)
 

  議論の発端はこの写真である。
  1960年の国土地理院の航空写真である。
  ご覧のように主郭の南下に階段状の畑?のようなものが映りこんでいるのが分かる。(下写真黄色網掛け部)

   ◆マウスを乗せよう
     



この階段状の段々が、
城としての曲輪なのか?それとも近代の段々畑か?
が議論となっている。

既存の縄張り図では、これを畑と判断し、縄張り図に描かない例もある。

今日の例会では、この段々を『城のものである』という人が2名
『いや、畑だ』という人が1名。
さあ、どっちだ!ということで、主郭から山を5名で下る事にした。




(※この階段状の段々を古墳と同じ呼称で、『段築』 と読んでいる方もいるが、古墳の物とは雰囲気が違うので、当方は階段状の段々と呼ばさせて頂く)



確かに山の斜面に段々がある。
その殆どに、下写真のように石垣が張ってある。
しかし細いものでは幅1mも無い。

我々の疑問は、

こんな細い畑に作物を植えるか????・・という事。

これでは作物が1列しか並べられない。
余りにも効率が悪いのではないか?
蜜柑や茶畑とも考えた。
ただ、この幅では収穫もできない。。。。。



       




結局我々の判断は、


この段は遺構として”無視できない” という事。
  


あぁ、やっぱり全部描かないとだめかぁ~













                                        (つづく)
   



 第7回ー1 とんでもないもの 2020/02/23
 
 今日は23日、土曜日!
 
 16日の中世城郭研究会の花園城例会は雨で中止。
 急遽、本日がそのリベンジDayとなったわけだ。
 今回は、既に花園城を描きあげた方ばかりの出席となった。

             

 そのため、今回の調査目的は
 
①私の武者隠し説の確認
 
②主郭下の段々の曲輪の確認(城の遺構か?近代の畑の跡か?)
 ③地元の方が『幻城』と呼ぶ、城郭関連遺跡?の確認

 となった。
 
 なので、私の調査の続きはあまり進展しそうもない・・・・・
   

  ________________________________________________________
 

 
 
①私の武者隠し説の確認
 
 さて、下の図は私の第6回の図面。
 第6回のEエリアを見学した後、『武者隠し』の存在が気になって、第5回で確認した部を再検証することにした。
 みなさんのご意見も伺おうというわけである。

      



 下に、エリアとエリアを拡大してみる。
 よく考えてみれば、そもそもが虎口であるならば、なぜC部に石垣を築く必要があるのか?
 Cは石段にしては登りづらいのである。
 また、Cから下は、かなりの急斜面で、城道(赤い線)にはとても行きづらい。(行けないこともないのだが・・・)

   

 
 ここで改てエリアと比較して見たい。
 赤い線を城道とすると、その経路が余りにも酷似しているのがわかる。
 石垣部分で道を直角に曲げ、上の平入虎口に誘導するところもそっくりではないか!

 よって、
Bエリアは虎口ではなく、Eエリアと同じく ”武者隠し” だと考えた

 

    ____________________________________________________
  

  下はBエリアの写真である。

      ◆マウスを乗せよう。・・・当初はこのような虎口と考えていた。
    
    
   土塁と竪土塁に挟まれた間を通り、石垣にぶつけ、さらに右に曲がる通路を想定した。
   この石垣のコーナー部は、道を直角に曲げるために作られたと考える。
   なにか、構築物があったのではなかろうか。

    

                                  (つづく)
    
    



 第6回 とんでもないもの 2020/02/15
 
 今日は土曜日!
 晴天とまではいかないが、雨は降りそうもない。
 しかし、悪いことに眼医者の予約が、11:00~入っていた。
 明日の日曜の予想は雨である。
 せっかくの週末、行くなら今日しかない。
 でも、11時から歯医者。

    
う~ん、どうしよう。”


   ________________________________________________________
 

           
やっぱ行こう!

 今日はなんとか天気は持ちそうだ。
 なにしろ、人間いつ死ぬかわからない。
 そ もそもそんなに若くもない
 目も、体も弱ってきた。
 見たい時に見たいものは、とにかく今、見ておこう!としみじみ思うのである。

(※ 実は私の仕事のパートナーが突然死した。金曜日、普通に話していたのに、月曜日の朝に亡くなったのだ・・・合掌)


  ________________________________________________________

 
 
AM 7:00。
 善導寺に到着。


 第5回の時には咲いていなかった梅の花が五分咲で迎えてくれた。
 

 




すっかり『春』めいてきた。
このままモタモタしていると葉っぱの季節になってしまう。

早くしなければ・・・・

焦る気持ちでいつもの諏訪神社から、
いつもの山頂を目指す。


  



 まず今日は、Eエリアの調査。
 ここには山腹に沿って3段の横堀状の遺構が残る。
 解説本によれば、3重の堀と書いてあるが、どうも変?だ。
 

 この3段堀は図面上、左側には竪堀とくっついているが、右側の竪堀まで達せず、途中でちぎれてしまっている。
 山腹の横堀であるなら、通常、左右の両方の竪堀まで堀を延ばすであろう。
 ココに築城者の意図を感じざるを得ない。

 右側の竪堀まで、3段堀を横に延ばさないのは何故だろう。。。。?

 つまり、
3段堀右側に通路を設けたかったからだ。
 3段堀の右側は通路なのだ。
 また、堀として防御するなら、もう少し深く掘っても良いだろう。
 しかし、三段の堀は異常に浅い。

     
 
 総合的に考え、管理人の3段に分かれたこの堀は
                  
『堀ではなく、近世で言う塹壕』 と考えた。

 つまり、
通路の敵を狙い撃つ、通称「武者隠し」だ。
 
 登城路の近くに隣接し、道を上がってくる敵を至近距離から迎撃する構造だ。
 敵を図面上の右側に誘導し、さらに、背後から、側面から狙う。
 ただ、どうして塹壕が3段もあるのかが、理解に苦しむところ。
 信長の様に、鉄砲の3段打ちでも構えたのだろうか?
 おそらく、下の2段は堀の右端で繋がっているので、は人の入れ替えを考慮した物だろう。
 最上段の堀は、敵を確実に直角に曲げさせ、平入りの虎口方向へ向かわせるためと考えた。
 
四角く張り出す石垣は、上段の虎口に向かわせる何らかの構築物のためと考えた。

 
ところで、ここまで考えた時、第五回で虎口と判断したの存在が気になってきた。
 図面上でよく見ると、非常に構造が似ている様な気がしてきたのである。
(第7回につづく)

  

 以下は、Eエリアの写真である。

  ■F部    
◆マウスを乗せよう
                            
  このように、どう見ても虎口に見える。でも、外に出られない


 ■F部を南方向から見る
 F部正面には厳重な石垣が。。。


■F部石垣
 結構立派な石垣だ。

   




 第5回 とんでもないことに。。。2020/02/07
 
 本当は、今日、娘の大学のコネで、神奈川県の河村新城の障子堀を見に行く予定だった。
 しかし、一緒に行くはずの娘の体調が悪化。
 あえなく予定変更。
 代替えは花園城となった。
 河村新城は残念ではあったが、これはこれで管理人としては満足。



さて、
いつものように追跡戦闘車(バイク)を善導寺に置き、
諏訪神社から花園城山頂を目指す。

















今日は主郭下山腹の広い郭から描き始めだ。
相変わらず、石垣で固めた虎口が美しい。
しかし、この城は石垣が多い。
図面では、明らかな石垣部分を
●●で表現してみた。
(下図A地点)




ところが、
ここでトラブルが発生!!

コンパスの様子がおかしい。
方位が・・・・というか、
方位磁針が動かない

よく見ると、磁針のケースの中に気泡が入ってしまっている。
この気泡が壁になり、針が動かなくなってしまっているのだ。

そこで、iPhpne備え付けの電子コンパスを使ってみる。
しかし、重いし、すぐスリープにになるし、使い勝手悪すぎ。

調査不能の事態となった!!
  とんでもないことだ。




      思案に暮れたが、管理人は下山を決意。
      新たなコンパスの購入を決定。
      幸いなことに花園城は寄居の市街地に近い。
      コンパスを購入できる店は、どこかあるだろう。。。


下山して調べると、すぐ近くになんとワークマンがある!
工事関係の店であれば、方位磁石くらい置いてあるだろう。
しかし、
あえなく撃沈。

そこでもう一足バイクを飛ばし、寄居のカインズホームへ。
流石にホームセンター!
ここには山用のコンパスがあった。
しかし、ちょっと安物感があるな、、、、、、と思いながら購入。

ソッコーで会計を済ませ、すぐさまパッケージを開けた。
そしたら、
今度は買った品物が不良品!
同じく方位磁針が動かない!
とんでもないことだ!!

さっそくお店に文句を言って、別のものと交換。
事なきを得た。





 よく考えれば、店の前でパッケージを開けてみて良かった。
 城に登ってから気づいたのでは、今日の調査は中止になっていただろう。



 

 さて、再び花園城へやってきた。
 仕切り直しだ!












     ____________________________________________________________

  ◆花園城第5回縄張り調査図
              



先ほど登った
A虎口から調査を再開。
するとその直下に、早速大きな枡形門遺構 
 を発見。
石垣と連動する枡形門である。
花園城の石垣は、後世のもの?と疑われがちのところがあるが、
石垣上段に平坦地も無いし、
土塁と連動しているので間違いなく往時の物だ。

ちょっと理解できないのが、下の道跡

虎口との連動が気になるところではあるが、後世の道と判断した。






虎口B

石垣を南から。





























虎口B横の竪堀を下から見上げる。
























この他、当日の調査としては、
Dエリアを徹底調査。

曲輪の方向が狂っていたり、表現がイマイチだったり、全てやり直しした。
写真は撮っていないが、ここにはたくさんの石垣遺構が残る。


これが、往時からの物か、それとも近代の物かが議論となっている。


  
 





 下に昭和の航空写真を並べてみた。
 
Dエリア付近を見てみると、当地は1947年には畑で利用されていた事がわかる。
 1960年の写真では、はっきりと畑段が認められる。
 麓からの道の跡も確認できる。
 1985年くらいになると畑の使用は無くなったようだ。
 藪化が進んだのはこの頃なのだろう。

 鶏が先か卵が先か。。。
 畑が先か、遺構が先か。。。
 謎は深まるばかりだが、今のところ私は城の遺構であると考えている。

 ◆国土地理院 電子国土航空写真より
 1947年・・・ちょっとボケてるが畑のようだ
 1960年・・畑と道痕がはっきりわかる
  1974年・・・放置され始めたか?
 1985年・・・・森に戻っている


 まあ、とにかく疲れた。
 何しろ今日は無駄に山を二回も登っているのだから・・・・・・・

 でも、普段はあまり人がいない花園城で、今日はツイッターのお仲間のミノポンさんや、花園城の道の整備をされている方とお会いすることができた。 
 城内で何度かすれ違い、その度にお話ができて、とても楽しかった。
 とくに整備をされていた方の 『幻城』 の存在の話は面白い。
 今度、行ってみようと思う。

 さ、家帰って、風呂入って、焼酎飲もうっと!

                                         (つづく)



 第4回 とんでもないもの。。。 2020/01/18



調査4回目 現地 午前8時。

今日もいい天気である。
最高の城日和となった。
















    まず結論として、第4回目の調査結果は以下となった。
    この現状図をベースに解説をしていきたい。

  
  



 



まず、三の郭堀切である。
写真は、堀切から横堀に変化した部分である。













その堀から、三の郭下の書きかけの続きを始める。
前回紹介した枡形門の下にも大きな虎口がある。
切岸にぶつけ、枡形門形式となっている。








さらにその下。
今回は図面化していないが、内部が石垣で囲まれている曲輪がある。

ほぼ同じ形態の遺構が、杉山城にもある事を思い出した。


  






さらに遺構を西に追うと、二の郭下の竪堀に出る。
竪堀上方には、第3回で紹介した四角い石垣矢倉台だ。

◆写真左手が石垣矢倉台


 









この竪堀は、山腹途中で二分割される。
その写真が以下。
写真向かって左の竪堀は途中で消滅するが、
右の竪堀は山麓まで至っているようだ。










      

さて、ここから縄張り図描きセオリーに基づき、再び山の主峰に戻る。

四の郭を描き、その堀切を覗く。
たいへん大きな堀切で、当城最大のものと思われる。
岩盤を削って出来ているのは他と一緒。
しかし、どうやって削ったのだろうか???

鎌倉の切通しのようである。
とても人力とは思えない迫力である。


      





































 今日はワケアリで午前中で終了。
 でも、あー、ちかれた。
 成果を、石垣とポチット記念写真!


      



                                              (つづく)




 第3回 とんでもないもの。。。 2020/01/04

 
 花園城も3回目の訪城となった。
 追跡戦闘車2号を善導寺に置き、そのまま城跡へ

  



 今回は二の郭、三の郭の調査。

 途中からだとどうしても中腹の遺構を先に確認したくなるが、経験上深追いすると狂いが生じやすい。
 まずは、天端に揃う曲輪から描き、次に袖を付けていくのが縄張り図の鉄則なのである。

 
そんなことを考えながら山を登ると、二の郭に到着だ。
 相変わらず遺構の残り方は抜群である。






二の郭堀切北部先端



















 




同上堀切を南から
















 

その二の郭から三の郭に渡る。
三の郭は新規調査になる。

この郭内部は、少し自然地形ぽい感があるものの、広さのある曲輪だ。

三の郭上部を描き終えて、山腹に回る。

すると、ここには土塁囲みの大きな枡形門がある。

これが、絵にかいたような枡形門で、南に下る傾斜地に設置されている所も憎い。
規模からいうと、所謂大手門と言って良いであろう。(ほかに見てないところもあるけど・・・)




◆ほんと見事な枡形門遺構。






  



 






下から望んだところ。












  

 


  この枡形門の土塁には石列が見える。
  掘ってみないとわからないが、この土塁は全面石垣なのだろう。(多分)

       
       



  
  

さて、この枡形門を描き、遺構の流れ的に、二の郭南斜面の縄張り描きに移った。

二の郭/三の郭との堀切は、大きな竪堀・横堀に変化する。
そのドンつきの二の郭南斜面側に、四角い石垣の矢倉台が備えられている。

堀を上がってくる兵士を確認したのだろうか?
この城の中でもピカイチの石垣遺構だ。
また、この台から西に続く曲輪も全て石垣でできていそうだ。





  ◆マウスを乗せよう・・四角い石垣範囲
    ◆マウスを乗せよう







矢倉台横には小さな石垣虎口がある。











矢倉台と虎口を別方向から撮影する。











 これ以上、山麓の曲輪を追っていると、縄張り図の狂いが出てきそうなので、別の機会に調査をまわそう。

 管理人は一旦、三の曲輪最頂部まで引き返し、三の曲輪の東堀切側に降りてみることにした。
 繰り返しになるが、縄張り図は上から描くのが基本なのである。





堀切に降りる場所には、先ほどの大枡形門の土塁と、
三の郭先端の土塁で、小さな枡形門が形成されている。

憎い造りだ。

堀へは明確な降り路が着いているので、
おそらく往時から堀底へ降りていたのだろう。











降りた堀底は広く、深く、南をみるとクランクしている。
(図には描けてませんが・・)

この先に何があるのか楽しみだ。

















今日の調査はここまで。
また次回に楽しみをとっておこう。
















                                            (第3回おわり)




 第2回 とんでもないもの・・・ 2019/12/28



  

追跡戦闘車1号で出陣。

車は藤田善導寺へ。
駐車はここがお勧め。
登り口の諏訪神社まで少し歩くが、トイレもあるし、全く問題ない。

 



  最初に本日の成果(左が一回目、右図が本日の成果)を紹介する。
  朝九時に登頂し、午後三時半まで。
  合計六時間半。
  ご覧のとおり、なかなか進まない。
      

     
  今日は主郭部を離れた場処の調査を行った。
  その中で、この城の特徴として感じたのが

  
①低い切岸は石垣を使用。
 ②切岸に通路のような細い段築が多い。
 ③かなり細かな曲輪配置。



 ①~③の理由は下の写真で紹介していくが、

 ①は、とにかくこの城には石垣が多い。
 あちこちに出てくる。
 石が土から顔を出している箇所も多い。
 表土をはがせば、相当な石垣が出てきそうである。
 管理人は現状図しか描けないが、低い切岸はほぼ全面石垣であると見た。。。

 加えて②は、切岸の要所要所に細い通路上の段築が多い。
 最初は文字通りの ”通路” と考え、有事の際の 『兵士の移動スペース』 と考えた。
 しかし、あまりに多いし、埋もれたとはいえ、この狭さは人がすれ違えない事に気がついた。
 よって、土塁が崩れないための補強であったと考えるほうが合理的と考えた。
 管理人は①も踏まえ、これらの段も全て石垣だと考えている。
 近隣の鉢形城の土塁補強の石垣の段築が、管理人の頭には浮かんだのである。
 これに付随して、本当に曲輪配置が細かくて悩まされる。③


   ________________________________________________________


 この城は、写真を撮ってもどこだかわからなくなってしまう場合が多い。
 今日は、それらをメモしていきたいと思う。




左は主郭西下の堀切。
この直角岩盤堀切は、いつ見ても気持ちが良い。









その南には大きな岩盤竪堀が走る
正面が土塁となり、ドンつきになっている。

この岩盤竪堀の両脇にも、細かな段築遺構が残る。









 



とにかく石垣が多い。
これは主郭西下の曲輪で露出する石垣。
通路か?
周りの緩傾斜に埋もれて、用途はいまいちはっきりしない。






主郭西下は、言い方が悪いかもしれないが、ただの段々の曲輪群だ。
主郭から離れてきたが、ここにもあちらこちらに石垣が見られる。
これは、通路として作られたと思われる石垣。
ここを登り、上の段に人を入れていたようだ。






主郭西下にも②で言う通路状の曲輪がある。
ぱっと見るとただの土の切岸が続くだけであるが、一部削られているところがあった。
おそらく獣の仕業であろうが、
 
なんとその中に石垣が見えるではないか!
 
しかも中心部からかなり離れた場所である
これが管理人の①の根拠となった。







あー、ちかれた。
細かな遺構に翻弄され、歩測が合わず行ったり来たり。
今日も牛歩調査だ。

岩盤竪堀の日当たりの良いところで一休み。
枯れ草ベッドは最高なのである。
あー、これが俺の癒しだ。





      でも、、、、、、、
   一体いつになったら終わるんだろー?


    ゴールの見えない不安。
 栃木のどこかの仕事と一緒。



                             (第2回おわり)



           

 第1回 また、とんでもないものに手を出してしまった・・・ 2019/11/06


 埼玉県に1年半前に引っ越してきたが、ここ埼玉ではめちゃくちゃ有名なのに、なぜかまだ一度も行ったことが無い城がある。
 それが花園城である。
 複雑な縄張り、広い城域であることは既存の図で知っていた。
 それが足かせとなっていたのだろう。
 でも、いつかはやらなきゃいけない課題だ。

 管理人は今期からの目標として、この城の制覇を掲げることにした。

  __________________________________________________

 花園城は後に後北条氏配下となる藤田氏の城である。
 城主・藤田康邦は、養子として北条氏邦を迎え城を譲った(というか実質乗ったられたのだろう・・・)
 自身は 用土に城を築き、そこに移ったとされる。
 北条氏邦はその後鉢形城を築くが、対岸にある花園城も戦略地として同時に整備したのではなかろうか。

  
 
花園城は秩父鉄道の線路沿いにある。
写真は諏訪神社前であるが、バイクもおけないくらい地面がふわふわである。
仕方がないので車道に置いたが、車の場合はちょっときつい。

線路向こうもご覧のとおり。
車を置くにはちょっと、、、という感じ。

          






ということで、一番安心な駐車場所は善導寺。
ちょっと歩く事にはなるが、広い駐車場で、一番安心。
藤田氏のゆかりの寺でもあるので、
お城見学で使わせていただくのは問題ないであろう。














  _______________________________________________________




さて、諏訪神社から城跡に向かおう。

境内に入る。
入ると右手に花園城の看板がある。(写真↓)
ここが登り口だ。


         



 



大した案内はないが、ピンクテープに従えば迷わず登れる。










 登山道途中に、このような大きな堀に出くわす。
 花園城の特徴でもある、長い竪堀状の堀である。
   


 山の峯近くになったとき、突然下の写真のような景色が飛び込んできた。



               うおーっつ!


               



  



なんと、

壁が直角である。

















  


傍らには、こんな石垣もある。

小倉城の石垣と似ている。
緑泥片岩の横積みの石垣だ。






















主郭である。
花園城の碑がある。

碑は立派なものであるが、山自体の整備はまったく行われていない。
ただ、お城フリークとしては、このような状態の方が萌える。
民家や訪れた人の目を気にせず、城跡調査に望めるからだ。


















主郭から登ってきた反対側の斜面を覗くと、
くっきりと堀切が見える。





















 


ここの切岸も直角である。






















誰がこの岩盤を削ったのだろうか?




























どうみても、ものすごい土木量である。
この堀切を作るには岩を削ることになるのだ。

いくら割れやすい岩だと言ったって、
土を掘るのとはわけが違う。





















主郭には大きな土塁を伴った虎口がある。





















主郭周りには石垣が巡っていたようだ。
部分部分に残っている。
ここは縦に石が積まれている珍しい場所。
























主郭南の虎口土塁の石垣。
ここは緑泥片岩を横積みしており、周辺の城と積み方が酷似する。
















結局なかなか主郭の形が取れず、今日は主郭周りのみ。
続きが楽しみだ。










                                (第1回おわり)




花園御岳城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

               

 後北条時代の城だろう・・・    2020/05/07
 
 前回の調査が1994年。
 いまから26年前ということになる。

 下記の縄張り図は結婚直前、嫁さんと付き合っている頃の成果。
 今回再調査し、感じたのは、青山城と違い旧図がなかなかよく描けているな・・・という事。
 遺構の大筋、形、ほぼ良くできている。
 自分で自分を褒めてあげたい。

 ただし、いけないのが主郭南の木橋の存在。
 当初、この竪堀には ”切岸の高低差から木橋が架けられない” と判断した記憶がある。
 旧図の表現では、その様になっている。

 しかし、改めて調査すると、ここは
間違いなく木橋の架かる場所である。
 なんで、昔はそんな風に思ってしまったのだろう??。
 やっぱりケツが
かった。

 旧図    1994/01/02

  
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。
       今後機会をみて改訂したいと思います。
 
                         
【注意書き】
 管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
 大変お恥ずかしい物ばかりである。
 読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。


  
花園御岳城へは、少林寺から登る。
綺麗に整備されたお寺で、駐車場も使わせていただこう。



 




 お寺の裏から花園御岳城を目指す。
 途中、中世の板碑もある。
 山道全域に渡って”五百羅漢”があり、石像に見守られながらの山登りである。

 しかし、私はちょっと苦手。
 バチが当たりそうだが、羅漢像に監視されているようで、薄気味悪い。  

          



 
羅漢像の山道を上がりきると広場に出る。
そこから西に少し下ると、左写真の標柱に出る。

城に行くには、そのまま真っ直ぐ進もう。
標柱どおりに行くと、円良田湖に降りてしまう。











 
【解説】 

 


  

真っ直ぐ進むと神社の鳥居がある。






鳥居の北側には、堀が。。







 

鳥居の南にも堀が。。。(右下写真)







神社への階段を上がると主郭だ。
ちなみに、鳥居のある場所は土橋状になっているが、これは明らかに神社の後世の改変。



 













 
ところが ぷちハプニング発生!
 主郭の石碑に向かってご祈祷をしている方がいるのだ。
 大きな声になったり、小さな声になったり。。。。拝んだり、ひれ伏したり。。。
 かなり、熱が入ったご祈祷だ。
 ・・・・・さすがに気まずい。
 主郭を描きたいが、祈祷をしている最中に周りをウロチョロするのはマズイだろう。
 世間を騒がしているコロナウイルスに対して、全世界平和を願っているかもしれないのに・・・

      ◆主郭内部
     



仕方がないので、主郭を描かずに、周辺の遺構から先に描き始めた。
左写真は主郭下の堀だが、機能的には堀というより、
堀両端にある2つの尾根に対する ”
武者隠し” とみた。
花園城にも同じ遺構がある。





 
 

 主郭まわりの導線を描いてみた。

 主郭下は、竪堀上を木橋で結んでいたと考える。
 有事の際、先述の武者隠しに兵士を備えるため、 虎口受けからの導線も確保していると見た。











●段々は曲輪か?考察



花園城と似ている・・・というところで、
この城にも花園城西側遺構と一緒で、段々の曲輪にも取れる地形がある。
御岳城の場合、段々は南郭、東郭下の途中から発生する。

段々は、花園城と同じように、幅は狭く、1m前後。(左)
所々・・・というか結構、石垣を使っている。(下)


 


  

 
 段々の位置は、城の主要部から外れている。
 また、周辺を調査してみたが、段段のある場所は、ここ南側の斜面だけであり、
 これらはほぼ山麓まで続く。

 
 
 













  
 
段々はAとBの塊に分断している。
城の遺構であれば、AB間を繋げ、斜面全体を守るはずである。
しかし、あえてそうしていない。

また、AもBも尾根上の半分にも満たないエリア。
郭であれば、尾根全体をカバーするはずである。


つまりは、城としての目的で作られたものではない。










 花園城と同じように1960年の写真を覗いてみると、予想通りの画像が出てきた。
 そう、ここも段々畑として写りこんでいる。(下写真)
 上の縄張り図のエリアと完全合致している。

 これらの事実から、この段々エリアは、城の遺構とは到底考えられない。
 よって御岳城のみならず、花園城、まぼろし城に存在する
花園周辺の山に広がる幅狭の段々は、
           城の遺構ではない
と結論づけた
 これらの段々は、近代になっての耕作地として造作されたものと考える。

 何を植えたかまではわからないが、花園周辺の耕作スタイルだったのだろう。


 ◆電子国土より 1960年航空写真 マウスを乗せよう
!!
                            (
注意!!・・スマホの方はマウス乗せると、本ページのTOPに戻ってしまいますがご容赦ください
     

 さて、この城は花園城の支城、または補佐として作られたというのは、大方の資料の一致した意見。
 私もその意見に賛成である。
 ただし、新設された時期が花園城と違う気がするのである。

 あくまでも管理人の感覚なのであるが、花園御岳城は、
縄張りが花園城に比べ大胆” 
 大きな曲輪取り、大きな虎口構造など、花園城のように細かくチマチマしていない。

 管理人は
花園御岳城は、花園城より築城時期が若いと見ている。
 藤田氏が後北条の軍門に下りてからの物では?と考えている。

 花園城は、藤田氏時代から存在した縄張りに、後北条流の改良や付け加えをしていった結果、チマチマ感のある縄張りになったのでは?と思うのである。
 

                      (花園御岳城おわり) 
 【既存縄張り図の評価⠀】まあ、みんなそこそこです。
               この段段曲輪を皆さんも書いていませんが、「城のものじゃないよー」って、誰かから聞いたのでしょうか?
               私は遺構と判断する、しないに、ここまで苦労しましたが、結構苦しむ所と思うのです。
               それとも、ただの見落とし?              



用土城(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
           

  あら・・・・何もない    2019/01/27


 用土城は花園城主・藤田康邦が、養子の北条氏邦に持ち城を譲り(というか実質乗ったられたのだろう・・・)、新たにこの地に城を築き移ったとされる。

 用土城の中心部は、”寄居町農業センター”近くにあるらしいのだが、近くの古刹、蓮光寺に駐車し、そこから歩くことにした。
 
 
蓮光寺はいかにも歴史のありそうな風格。
思ったとおり、板碑が中世を物語る。


   



大きな板碑は風化が激しいが、小さなものはキリークがはっきり読み取れる。

境内の梅は春を先取りし、もう開き始めていた。

   





さて、蓮光寺の西側の道路を直進。
しばらくすると、用土城の石碑が見えてきた。







石碑の近くの”寄居町農業センター”は鯱が載る城郭風の建物である。

農業センターから石碑の方向を望む。

城跡は大正時代に開墾され、全く跡形もない。

    






石碑の周りは一段高くなっているようであるが、
なんとも言えない。。。。。


















用土城からは猪俣城がよく見える。
連絡を取り合っていたいたことは、容易に相応できる。


現在は遺構も何もないが、ちょっと小高い丘の上の城跡という感じ。
これだけ高い築城技術をもった藤田氏である。

  「
あぁ、少しでも残っていればなぁ~

と心から思ってしまった。












                                          (おわり)




池田氏陣屋(とりあえず写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください        

 巨大な方形陣屋    2019/03/31


池田氏陣屋は、寄居町の昌国寺にある。
いまは在寺する僧侶がいないようで、寺の整備は行き届いていない。
立派な桜の木があるが、もったいない感じである。
隣接する墓地の檀家の方々に、支えられているという感じなのであろう。

  

図面を描いてないが、四角い敷地に土塁、堀が明瞭に残っている。
土塁の高さは、現在1m~2mほど。
空堀もあまり深くない。

  

陣屋を築いた水野長勝は、後北条氏に属していた。
小田原の役の後は、徳川家康と従弟関係であったことから赦免され、この地を与えられたという。
水野家はそれから江戸期まで、ここに居住していたようだ。
長勝の墓は陣屋脇にあるが、新しく作り替えられていると思われる。

  

さらに谷を挟んで長勝以降、水野家累代の墓があるが、立派なものばかりである。

  

かなり立派な宝筐印塔であるが、これまた新しい感がある。

 

                                       (一応おわり)
 



千馬山城





浦山城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください



  

 第二回 やっぱ、今シーズンも   2019/10/16
 
 
 10月も半ばを過ぎると、ウズウズしてくる。
 虫が少なくなり、どうしても城に行きたくなるのは、”私の本能” としか言いようが無い。


・・・と、いうことで追跡戦闘車2号(バイク)に跨り、浦山城にやって来た。

バイクは城の直下 「かたくりの里」 に駐車。
全国に被害を及ぼした台風19号の影響のためか、この先は通行止めになっていた。





 
 【解説】

  
●主峰の状況
 浦山城へ行くには、カタクリの里から山の稜線伝いに行軍すれば良い。

主要部に入る手前に、大きな岩があるが、ここからが城域だろうか?
岩の用途としては、虎口の装備に使われていた可能性もある。



さて、写真右手の道は、このまままっすぐ進むと思いきや・・・・・





・・・一度クランクし、主要部へ続く細い尾根に上がるのである。

これも、かつてからの物であろうか?
山には、いくらでもこのような登山道がある。
城の遺構とするには、微妙な感じ。










さらに進むと 堀切① が見えてくる。

堀切①は主郭との比高差が明確で、
非常に迫力ある堀切である。










堀切①を渡ると 主郭 へ向かう綺麗な坂道がある。
かつて主郭には神社が有り、その参道とも考えられるが、
往時のものとして図に描いた。





 

 浦山城のような、近くに小集落を伴う立地の城を、通常 「村の城」 と呼び、有事の村人の逃げ込み場とする説がある。
 しかし、この城は狭すぎ。
 主郭の平坦面は東西20mほどもない。
 浦山城の東側にも集落があるが、管理人には、とてもここの人達全員を収容できるとは思えないのだ。
 昔から思っているのだが、村の城論はとても胡散臭い。



今度は主郭より、東の尾根に向かおう。
主郭方向に振り返った写真が、左である。
頂上部以外、山の稜線上の加工は極めて甘い事がお分かりであろう。







その先の 堀切② である。
主郭側より堀切を望んでいる。
こちらも、堀切①同様、非常に落差を感じる仕立てになっている。

















規模は堀切①とほぼ同等である。
神社の参道が無いためか、人があまり歩いてないせいか、
現状②遺構は、①よりシャープな感がある。

















堀切②内部から堀切切岸を見上げる。
落差のあるこの切岸では、敵兵も気力が減退してしまうだろう。
小さな城であるが、非常に良く加工されている。



















 
●支尾根の状況





 実は主郭北には、細い尾根が走っている。
 この尾根に取り付かれないようにするためか、主郭から竪堀状の溝が落ちている。
 崩落の可能性もあるが、縄張り図には一応竪堀?として表現してある。
 左写真は、その主郭北の細尾根の状況。
 自然崩落の可能性もあるが、東側が切岸となっており、そのまま下方へ続いている。















 堀切②を東に超えると、緩い尾根が広がってくる。
 つまり堀切②は、尾根が広がる直前の、ちょうどウエスト部分に配置されている。
 
 
 さて、この尾根を下ると、木のない藪が広がっている。
 ここは2015年、埼玉県が発掘調査を行った場所らしい。
 県のツイッターでは、16世紀のかわらけや、近代の遺物も出ているということで、
 この城が、戦国時代から使われていた可能性も十分ある。
 





浦山城の存在意義であるが、
武田氏に備えた後北条氏の城と考え、高松城や、金鑚御嶽城との関連を唄う資料も見受けられる。

しかし、浦山城を中心に考えると、両城とも余りにも距離がありすぎる。
致命的なのは、お互いが途中の山塊に阻まれ、狼煙などの有視界情報は全く確認できない。
よって、これらの城との関連付けは無理だろう。

では、何のための城か?
管理人が、この城の主郭の狭隘さが、いわゆる ”村の城” と考えない事は先に述べた。
また先の理由で、後北条氏の繋ぎの城とも考え難い。
近隣の城峰山との関わりを唄う資料もある。
しかし、城峰山、鐘掛山には遺構が全く無い。皆無である。
城峯山に比べ、「城」としての機能は、浦山城のほうが数段上であり、
浦山城が、城峯山と同時代/同一目的のために作られたとは思えない。
なぜ城峯山に遺構がなく、浦山にだけあるかが説明できない。

・・・とすれば、残るのは一つしかない。

道の管理・監視だ。

浦山城の東の山腹には、山奥にも関わらず、現在も集落が点在する。
もちろん新興住宅地でも無いだろうから、かなり前から人が居住していたと考えられる。
ということは、浦山城のそばには、なにか当時、生活に重要な道路が通じていたと考えるのが穏当ではなかろうか?
よく見れば、浦山城から ”風早峠” を抜け西に向かうと、
神流川(かんながわ)方面に抜けられる。

今ひとつ合点がいかないところもあるが、今のところ管理人にはこれ以外の推論は持ち合わせが無い。

            


←◆電子国土より 浦山城と高松城/金鑚御嶽城の関係




      (浦山城、コンプリート)


 【既存縄張り図の評価】このような規模の城であるため、まあ皆、似たり寄ったりである。間違えようが無いもんね。




第一回 遠い山の中に・・   2019/05/26
 
 


こんな季節である。
でも、標高500m級の浦山城であれば、草も虫も少なかろう!と出かけてみた。

 ところが、 ぎっちょん である。

めちゃくちゃ暑いし、大量のメマトイが ぶん~ぶん~。

うるさくって仕方ない。

それでも、せっかく来たのだからと、女房と無理くり弁当を食べて、退散した。

 









      _________________________________________________________

   
    浦山城に登るには、皆野町の ”カタクリの里” を目指そう。
    
    ここには大きなアジサイ園もあり、ネットを覗けば場所はすぐわかる。

        


 かなり標高の高い場所であるが、このようなところにも(
失礼な言い方ですみません)、ちゃんと集落がある。

 集落に近い立地条件から、浦山城のような城を良く  
村の城  と呼ぶ説がある。
 有事の際は皆が逃げ込む場所・・・とされているが、浦山城の場合、城域が異常に狭い。
 果たして本当にそうなのだろうか?????
 正直、私は全く信用していない。

     ________________________________________________________


 さて、冒頭のカタクリの里から、稜線上を東に進む。
 さっそく見えてきたのが、
堀切だ。


  予想に反して、とても大きな堀切であるが、木橋を掛けた跡は見当たらない。
  堀を(じかに)に登り降りしていたのだろう。






     








  我が細君と比較すると、その規模がお分かりになるであろう。
  こんな山の中なのに、ナカナカの代物である。
                   



   堀を渡ると、まっすぐ主郭に向かう道がある。
   途中に石碑があり、近代の造作が認められる。
   そのため、この道が築城当時からのものなのか、否か?・・・ちと判断が難しい。

   主郭に達すると、他にも石碑が建てられている。
   信仰の山であったようだ。
    



 ◆主郭内部
主郭の平場の面積は、5m×7m ほどあろうか?
とにかくに狭い。
かつての集落の人が全員逃げ込むには、あまりにも狭すぎる。
どちらかというと、物見程度の施設と思ったほうが合点がいく。

また、主郭の北斜面に竪堀状の溝が走る。
これも、本当に竪堀であったかは疑問である。
なにしろ、急な斜面である。
必要性がわからない。

         ◆わかりにくいが、竪堀?
       



 



主郭から東に向かうと、もう一本堀切がある。
こちらの堀切も立派である。

ここから先には遺構は無い。
堀切が終結点のようだ。







◆主郭側から堀切を望む




  


  う~ん・・
   なかなかの堀切だ。


    見ていてなんとも気持ちが良い。。。。









 


堀内部もシッカリ加工している。














   
 

 
 昨年管理人は、当城の峯続き ”城峰山” の調査を行った。
 城郭関連地名バリバリの割りには、遺構は全く無く、残念な結果となった。
 ついでに言うと、当城近くの ”金沢城山” にも、遺構は無いらしい。
 埼玉県の解説版によると、この一帯は「山全体が城の役割」 ということである。
 

 しかし浦山城は、遺構の無い城峯山山系の中なのに、


   
 間違いなく城と断言できる遺構がある。
   
   

 そう、
    山全体が城としての機能なら、

   
なんでここだけしっかりした遺構があるのか????


     
         絶対おかしい・・・・・・
 
 









   ◆カタクリの里駐車場から付近を望む・・・なにしろ山深い場所だ。        
 

 この地域、まだ未踏査の城の匂いが プンプン するのである。


        ◆傍らに咲くシランの花



                         (いったんコンプリート。 いつか図面描きます)



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旧図    1994/02/04

  

 

【お断り】
本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難がある。
なので、ご参考に。
今後もし機会があったら改訂したいと思います。

                         
【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、
(実は生まれも育ちも東京都)
過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。

金尾山要害城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

旧図    1995/01/15

  

 

【お断り】
本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難がある。
なので、ご参考に。
今後、もし機会があったら、改訂したいと思う。

                         
【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。