埼玉県の中世城郭 



 

寄居町 1 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらないまたは城とするかどうか判断の迷う物を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 金尾山要害城  『桜沢(砦)??sk』 藤田氏(館)・箱石(館)写真撮影のみ 花園御岳城 池田氏陣屋
用土城(写真掲載のみ)        


『桜沢(砦)??sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 ダメでしょ、ここ  2020/08/29
 
寄居警察署の裏山、八幡山山頂が ”桜沢(砦)” 』という。 (※資料)

鉢形城の支城、または監視目的で築かれたということだが、資料からは遺構は期待できそうにない。

しかし、この山から鐘撞堂山までは、綺麗なハイキングコースとなっているらしく、夏の暇つぶしも兼ねて登山することにした。
 



国道254が寄居街に近づくと、急に桜沢(砦)の山容が見えてくる。















砦までの登山口は、八幡大神社境内横にある。

 


神社脇の公民館には、広い駐車場がある。
ここからスタートである。









ハイキングコース入口には、立派な導入標があるので、迷うことはない






















登り始めて15分ほど。
八幡山頂上手前の小ピークに到着。

いちおう、ここからペンとスケッチブックを取り出し、
スケッチを開始することにした。

だが、人工的な切岸は確認できない。。。。













小ピークから地形は一度降下する。
八幡山頂上へは、細い鞍部が繋がっている。




















道は少し登りになり、八幡山頂上近くになるが、
遺構らしきものは、やっぱり何もない。















俺も歳とったなぁ。。。

頂上に着いた!!
しかし、周りは見事なまでの自然地形!!






資料1※では、写真右手に小さな曲輪がある表現になっている。
しかし、これは自然地形でしょ。
曲輪でない。


周囲も歩き回ってみたものの、結局、人工的な加工痕は見いだせず。

結局、
桜沢(砦)には遺構が無いと言う結果になった。







無理くり図面にしても、これが限界。
これ以上描いたら、私は『嘘つき』になってしまう。
 

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ついでだから、立派なハイキングコースなので、鐘撞堂山近くまで歩いてみた。





 おおっつ!我が社も立派な事をやっていたものだ。。。









途中の山からは、たしかに鉢形城方面が確かに望める。



















結局、鐘撞堂山までは行かず、少し手前で来た道を引き返し、帰路につく。
帰りに、寄居出張時によく来ていた飲み屋の玄関先から桜沢(砦)から撮影した。
その時、ちょうど秩父鉄道が通ったのである。













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■以前の記事

(追記)
実はこの山にも、花園城/花園御岳城に広がる、細い階段状の段々が麓まで続いている。
よく観察すると、この細い段々の境界を守るように、金属製のバリケードが張られている。
・・ということは、やっぱりこのあたりの山の細長い段々には、何か農作物が植わっていたのだろう。

花園城/花園御岳城含め、これら段々遺構は、城の物ではないことが明白となった。
いったい、何を植えたのだろう???・・・

        ◆畑横のバリケード                    ◆細い段々
       
 (さらに追記)
※追記 2021/09/03
本記事の段々曲輪は、近代のみかん畑の跡ということが判明しました。 

渡邉 様 お世話になっております。 寄居町役場農林課の○○と申します。 お問い合わせいただいた花園城跡地山腹にある段々ですが ご推察のとおり以前みかんの栽培していたようです。 個人農家さんが栽培していたもので町で把握はしておらず 上記の内容も付近の農業に詳しい方にお話を伺いました。 ご確認よろしくお願いいたします。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓  寄居町 農林課   〒369-1292 寄居町大字寄居1180-1
  

                           (完了)

  【評価】 明確な遺構なし
      ※『秩父路の古城址 中田正光著 有峰書店新社』では、 ”八幡山城” の項に縄張り図も掲載されているが、当ホームページでは城とは認めない。 

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藤田氏(館)・箱石(館)写真撮影のみ   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 荒川沿いの居館? 2021/09/11
 

花園城のコラムでも述べたが、花園城の城下に藤田氏館と箱石館があったようだ。
詳細は当方知らないが、道路建設のため発掘調査が実施され、
15世紀頃の遺物が確認されているようだ。

現地に行って、現況を確かめた。
場所は左図。
花園城の南、荒川の縁に、これらの城があったようだ。

■両図とも国土地理院地図より





藤田氏館。
南北に走る川(用水路?)がL字になっている場所がある。
これらを堀とすれば、L字の内部は、何となく小高く城郭の雰囲気がある。

しかし、それ以上は何もない。















東西に延びる川?用水路?

















南北に走る川?用水路






















箱石館。
こちらは、まったく旧城が想像できない。

















ただの民家と畑地。
想像するにも難しい。



結局、
つまらん!


────以上────
 【⠀既存縄張り図の評価⠀】 不可能!



花園御岳城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

               

 後北条時代の城だろう・・・    2020/05/07
 
 前回の調査が1994年。
 いまから26年前ということになる。

 下記の縄張り図は結婚直前、嫁さんと付き合っている頃の成果。
 今回再調査し、感じたのは、青山城と違い旧図がなかなかよく描けているな・・・という事。
 遺構の大筋、形、ほぼ良くできている。
 自分で自分を褒めてあげたい。

 ただし、いけないのが主郭南の木橋の存在。
 当初、この竪堀には ”切岸の高低差から木橋が架けられない” と判断した記憶がある。
 旧図の表現では、その様になっている。

 しかし、改めて調査すると、ここは
間違いなく木橋の架かる場所である。
 なんで、昔はそんな風に思ってしまったのだろう??。
 やっぱりケツが
かった。

 旧図    1994/01/02

  
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。
       今後機会をみて改訂したいと思います。
 
                         
【注意書き】
 管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
 大変お恥ずかしい物ばかりである。
 読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。


  
花園御岳城へは、少林寺から登る。
綺麗に整備されたお寺で、駐車場も使わせていただこう。



 




 お寺の裏から花園御岳城を目指す。
 途中、中世の板碑もある。
 山道全域に渡って”五百羅漢”があり、石像に見守られながらの山登りである。

 しかし、私はちょっと苦手。
 バチが当たりそうだが、羅漢像に監視されているようで、薄気味悪い。  

          



 
羅漢像の山道を上がりきると広場に出る。
そこから西に少し下ると、左写真の標柱に出る。

城に行くには、そのまま真っ直ぐ進もう。
標柱どおりに行くと、円良田湖に降りてしまう。











 
【解説】 

 


  

真っ直ぐ進むと神社の鳥居がある。






鳥居の北側には、堀が。。







 

鳥居の南にも堀が。。。(右下写真)







神社への階段を上がると主郭だ。
ちなみに、鳥居のある場所は土橋状になっているが、これは明らかに神社の後世の改変。



 













 
ところが ぷちハプニング発生!
 主郭の石碑に向かってご祈祷をしている方がいるのだ。
 大きな声になったり、小さな声になったり。。。。拝んだり、ひれ伏したり。。。
 かなり、熱が入ったご祈祷だ。
 ・・・・・さすがに気まずい。
 主郭を描きたいが、祈祷をしている最中に周りをウロチョロするのはマズイだろう。
 世間を騒がしているコロナウイルスに対して、全世界平和を願っているかもしれないのに・・・

      ◆主郭内部
     



仕方がないので、主郭を描かずに、周辺の遺構から先に描き始めた。
左写真は主郭下の堀だが、機能的には堀というより、
堀両端にある2つの尾根に対する ”
武者隠し” とみた。
花園城にも同じ遺構がある。





 
 

 主郭まわりの導線を描いてみた。

 主郭下は、竪堀上を木橋で結んでいたと考える。
 有事の際、先述の武者隠しに兵士を備えるため、 虎口受けからの導線も確保していると見た。











●段々は曲輪か?考察



花園城と似ている・・・というところで、
この城にも花園城西側遺構と一緒で、段々の曲輪にも取れる地形がある。
御岳城の場合、段々は南郭、東郭下の途中から発生する。

段々は、花園城と同じように、幅は狭く、1m前後。(左)
所々・・・というか結構、石垣を使っている。(下)


 


  

 
 段々の位置は、城の主要部から外れている。
 また、周辺を調査してみたが、段段のある場所は、ここ南側の斜面だけであり、
 これらはほぼ山麓まで続く。

 
 
 













  
 
段々はAとBの塊に分断している。
城の遺構であれば、AB間を繋げ、斜面全体を守るはずである。
しかし、あえてそうしていない。

また、AもBも尾根上の半分にも満たないエリア。
郭であれば、尾根全体をカバーするはずである。


つまりは、城としての目的で作られたものではない。










 花園城と同じように1960年の写真を覗いてみると、予想通りの画像が出てきた。
 そう、ここも段々畑として写りこんでいる。(下写真)
 上の縄張り図のエリアと完全合致している。

 これらの事実から、この段々エリアは、城の遺構とは到底考えられない。
 よって御岳城のみならず、花園城、まぼろし城に存在する
花園周辺の山に広がる幅狭の段々は、
           城の遺構ではない
と結論づけた
 これらの段々は、近代になっての耕作地として造作されたものと考える。

 何を植えたかまではわからないが、花園周辺の耕作スタイルだったのだろう。


 ◆電子国土より 1960年航空写真 マウスを乗せよう
!!
                            (
注意!!・・スマホの方はマウス乗せると、本ページのTOPに戻ってしまいますがご容赦ください
     

 さて、この城は花園城の支城、または補佐として作られたというのは、大方の資料の一致した意見。
 私もその意見に賛成である。
 ただし、新設された時期が花園城と違う気がするのである。

 あくまでも管理人の感覚なのであるが、花園御岳城は、
縄張りが花園城に比べ大胆” 
 大きな曲輪取り、大きな虎口構造など、花園城のように細かくチマチマしていない。

 管理人は
花園御岳城は、花園城より築城時期が若いと見ている。
 藤田氏が後北条の軍門に下りてからの物では?と考えている。

 花園城は、藤田氏時代から存在した縄張りに、後北条流の改良や付け加えをしていった結果、チマチマ感のある縄張りになったのでは?と思うのである。
 

                      (花園御岳城おわり) 
 【既存縄張り図の評価⠀】まあ、みんなそこそこです。
               この段段曲輪を皆さんも書いていませんが、「城のものじゃないよー」って、誰かから聞いたのでしょうか?
               私は遺構と判断する、しないに、ここまで苦労しましたが、結構苦しむ所と思うのです。
               それとも、ただの見落とし?              

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用土城(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください      

  あら・・・・何もない    2019/01/27


 用土城は花園城主・藤田康邦が、養子の北条氏邦に持ち城を譲り(というか実質乗ったられたのだろう・・・)、新たにこの地に城を築き移ったとされる。

 用土城の中心部は、”寄居町農業センター”近くにあるらしいのだが、近くの古刹、蓮光寺に駐車し、そこから歩くことにした。
 
 
蓮光寺はいかにも歴史のありそうな風格。
思ったとおり、板碑が中世を物語る。


   



大きな板碑は風化が激しいが、小さなものはキリークがはっきり読み取れる。

境内の梅は春を先取りし、もう開き始めていた。

   





さて、蓮光寺の西側の道路を直進。
しばらくすると、用土城の石碑が見えてきた。







石碑の近くの”寄居町農業センター”は鯱が載る城郭風の建物である。

農業センターから石碑の方向を望む。

城跡は大正時代に開墾され、全く跡形もない。

    






石碑の周りは一段高くなっているようであるが、
なんとも言えない。。。。。


















用土城からは猪俣城がよく見える。
連絡を取り合っていたいたことは、容易に相応できる。


現在は遺構も何もないが、ちょっと小高い丘の上の城跡という感じ。
これだけ高い築城技術をもった藤田氏である。

  「
あぁ、少しでも残っていればなぁ~

と心から思ってしまった。












                                          (おわり)

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池田氏陣屋(とりあえず写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください        

 巨大な方形陣屋    2019/03/31


池田氏陣屋は、寄居町の昌国寺にある。
いまは在寺する僧侶がいないようで、寺の整備は行き届いていない。
立派な桜の木があるが、もったいない感じである。
隣接する墓地の檀家の方々に、支えられているという感じなのであろう。

  

図面を描いてないが、四角い敷地に土塁、堀が明瞭に残っている。
土塁の高さは、現在1m~2mほど。
空堀もあまり深くない。

  

陣屋を築いた水野長勝は、後北条氏に属していた。
小田原の役の後は、徳川家康と従弟関係であったことから赦免され、この地を与えられたという。
水野家はそれから江戸期まで、ここに居住していたようだ。
長勝の墓は陣屋脇にあるが、新しく作り替えられていると思われる。

  

さらに谷を挟んで長勝以降、水野家累代の墓があるが、立派なものばかりである。

  

かなり立派な宝筐印塔であるが、これまた新しい感がある。

 

                                       (一応おわり)
 

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円良田城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

旧図    1994/02/04

  

 

【お断り】
本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難がある。
なので、ご参考に。
今後もし機会があったら改訂したいと思います。

                         
【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、
(実は生まれも育ちも東京都)
過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。

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