横瀬町
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
古御嶽城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
石灰工場の裏に 2021/4/24 |
古御嶽城は、根古屋城とSETで、妻坂峠方面からの街道監視の城と思われている。 ということで、根古屋城の次に訪れてみた。 根古屋城もそうであるが、この城にも駐車場が全くない。 情報で猿田彦神社前に置けるというので、車1台分くらいのスペースに、勝手に置かせてもらった。 石灰工場横に送電線の点検路道標があるので、ここから山に入る。 しばらく登ると、送電線の広いスペースに出る。 ここから古御嶽城へは踏み跡を辿ることになる。 しかし、山は綺麗に整備されていて、非常に歩きやすい。 城の帰りに間違えそうなポイントがここ。 目印は黄色○である。 歩きやすいので×の尾根に進んでしまうと、石灰工場の裏に出てしまう。 帰りは、必ず→方向に下って欲しい。 その先に進むと、岩の崖に出る。 ここが御嶽山岳信仰?の入口と思われ、しめ縄と石碑がある。 岩崖であるが、気をつければ難なく登れる。 上がった崖から振り返る。 結構な迫力だ。 下山の時は気を付けよう。 |
【解説】 しばらく歩くと、古御嶽城に着いた。 ここは二の郭のようだ。 この城にしては広い曲輪取りをしている。 その先に堀切が見えてきた。 ここあたりからこの山は急に岩でゴツゴツしてくる。 この堀切は岩盤をくり抜いて堀切にしたようだ。 北側の壁の加工が甘いが、こちら側を通路にしていたのだろうか。 堀切を南側から撮影。 こちらから見ると、けっこうな堀切に見える。 堀切を越えると虎口状の入口がある。 ここを上がれば主郭だ。 この山は信仰のために建てられた石碑が多数存在する。 私もこの手のことには知識は希薄だが、 水天宮だったり、養蚕の繁栄?を願ったり、どれもこれも違う願いや、神様が彫られている。 ということは、かなりの人がこの山を訪れており、 山の上を改変されている可能性も否めない。 主郭は二の郭に比べると、かなり幅が狭い。 せっかくなので、ポチリ。 この石碑群の裏に竪堀状の溝が走る。 本当に竪堀としてしまって良いのだろうか? 躊躇する。 確かに横から見ると竪堀のような気もするが、自然にできたとも言えなくもない。 その先には加工の甘い小スペースがある。 写真左手の岩塊を”土(岩)塁”と解釈する図面もある。 しかし、これは自然のものだろう。 さらに東に行くと、竪堀?がもう一つある。 ほんとに竪堀だろうか。 微妙。。。 そこからさらに東。 二つ目の堀切が見えてきた。 この堀切も岩盤をくり抜いた堀である。 この堀切の位置である。 ◆YAMAPより さて、所変わって二の郭下の腰曲輪にやってきた この腰曲輪には二の郭から尾根状にスロープが降りている。 これが連絡路であることは間違いない 腰曲輪はその下にもある。 同じく尾根状のスロープをくだる形だ。 ここの方が、削平がしっかりしている。 その曲輪で記念撮影。 この日の調査を終えた。 PS 皆さん、正直言っていいですか? 実はこの城、単純な縄張り過ぎて、あまり面白くなかったです。 |
【既存縄張り図の評価⠀】あまり間違うような城ではないが、竪堀を竪堀と捉えるかは個人の判断で差が生まれそう。 また、北側の谷間を城の縄張り図に書き込んでいる人がいるが、確かに人工の加工のようにも見える。 しかし管理人は、これは城のものではないと判断している。(図中に記載) |
第1回 主郭部 | 第2回 通称御殿部 |
第2回 通称御殿部 2021/4/10 |
城に向かう途中、寄居鉢形城・氏邦桜に立ち寄った。 ・・・・・すっかり、葉桜 でも、やっぱ立派な大木だ。 |
ところ変わって、根古屋城に到着。 例の場所にバイクを置く。 しかし、今日も見るも哀れな武甲山である。 バイク置き場から秩父方面を望んでみる。 真ん中を走るのは西武秩父線。 このように秩父方面には、当城から結構見晴らしが効く。 今度は駐車場所から根古屋城を望む さあ、早速調査開始だ! ◆現地縄張り図 今日のメインは山麓の通称・御殿部分。 だが、その前に、山麓の遊歩道と主郭部の位置関係を再調査した。 その理由であるが、 この様な大きな城では、大体1枚の紙に縄張り図が収まらない。 図面を部分分けして描く仲間もいるが、管理人は極力しないようにしている。 それは、後でつなぐと辻褄が合わなくなったり、曲輪間の距離感が狂ってしまったり・・・・ 何よりも後で紙を貼り合わせるのが面倒だ。 そんな事に悩むのだったら、最初っから現地で一枚にしてしまおう!という発想である。 こうすることによって曲輪感の関係が現地で明確になり、より現状に近い図になる。 疑問に思うことの確かめ算もすぐできる。 だけど山城などは、山頂部と山麓部の位置関係を合わせるのは非常に大変である。 ただこの根古屋城には、遊歩道があったので、歩道を基準にして、山頂&山麓 の距離感が揃うように何度も描き直した。 このように、B4のスケッチブックの紙を5、6枚ほど継接ぎしてできたのが、 上図である。 こうしておけば、等高線イメージを加えるだけで、基本縄張り図全体が現地で完成する。 さて、今日の調査は主郭下の堀切から始めた。 これは手前の堀切残欠。 半分?は石灰採掘で壊滅。 その下の堀切。 弧を描いているようだが、途中で壊滅。 ここから山を下り、いよいよ御殿部に突入する。 まず谷間を見学すると、巨大な岩がある。 かなり、ビジュアル的にも威圧感がある。 御殿部への象徴的な存在として、 谷間の監視場所として、往時から使われていたものだろう。 岩を別の角度から見る。 写真だと伝わらないが、かなりの迫力である。 その岩と谷を隔てた対岸に、もう一つ岩がある。 谷間の虎口として使われたのではないだろうか。 その先には、地元の方が教えてくれた「池跡」がある。 かつては水が溜まっていたらしいが、遊歩道造成で水が無くなってしまった。 いよいよ御殿内部に突入する。 綺麗に削平されているが、何段かに分かれていたようである。 写真は切岸が崩れたものだろうか? 緩やかに落ちるスロープ状の段。 御殿部はなり広い空間で、駐屯スペースとしては十分。 そこに設置されている根古屋城の解説版。 北条氏直の家臣の城と「新編武蔵野風土記稿」に書かれているようだが、 どこまで信ぴょう性があるかは不明。 さて、この御殿跡ですごいのが、南面の堀と切岸。 切岸高さは10mほどあろうか。 この城が後北条氏のものというのは何となく頷ける。 それだけの規模なのである。 最東端から、堀内を撮す。 左側には細い土塁が一直線に延びる。 長く続く横堀には一箇所虎口がある。 スロープを御殿側に登らせている。 写真は虎口から堀の様子を撮す。 その虎口のスロープから撮る。 ここには御殿側から横矢が掛かる。 土塁を伴った横堀は、御殿中央部分でスパッと途切れる。 そこから北西は、傾斜を持った広い腰曲輪に変化する。 破壊か? ちょっと今になってはわからない。 改めて切岸を見渡す。 なんで、ここだけこんな壁が高いのだろう?? 写真では分かり辛いが、この切岸に沿った御殿側に土塁が伸びている。 その土塁の先端は、大きな枡形虎口となっている。 写真はその北側の土塁。 土塁を通路にはみ出させ、枡形形式をとっている。 御殿部先端は大きな堀切となっている。 他の尾根ではこれだけ大きなものは見られない。 この城の主要部がココであることを、如実に表している。 御殿からの虎口スロープは、稲荷神社方向へへ下る。 稲荷神社横には竪堀が走る。 緩めなこの尾根を上がってきた敵を、 枡形虎口方向誘導する効果を狙ったのだろう。 ひととおり見学を終え、下山。 しかし、いつ見ても満身創痍の醜い武甲山である。 人間の身勝手な行動により、綺麗な山が、この様な酷い姿となってしまった。 これを売りに観光ポスターにしている西武鉄道の気が知れない。 根古屋城といい武甲山といい、石灰採掘の傷跡は大きい。 (とりあえずこれで終わり) |
【既存縄張り図の評価】 ネットを検索すると、採掘場最南端の堀切に気づいている方もおられるようだ。 だが、城郭関係者の縄張り図として描いたのは、当方が初めてだと思われる。 |
第1回 石灰採掘で消えた主郭 2021/3/27 |
AM7:40 城に向かう途中、寄居鉢形城・氏邦桜に立ち寄った。 もうすでに散り始めていた。 ところ変わって横瀬町の根古屋城である。 残念ながら、この城には "駐車場所というものが用意されていない"。 仕方がないので、道横に止めさせていただいた。 車で行かれる方は十分覚悟していただきたい。 写真背後は見るも無残な武甲山。 まさか、この城にも同様の被害がもたらされているとは・・・。 車で訪れた人には配慮のない当城であるが、 ハイカーには優しい道標がある。 では、早速登ってみよう。 |
早速山麓の曲輪の虎口が迎えてくれる。 土塁を通路まではみ出させ、横矢にしている。 非常に立派で、技巧的な虎口だ。 この虎口横に、連動するように竪堀が落ちている。 結構、これを見落としている既存縄張り図があるので、見落とさないようにしよう。 堀横に赤い神社があるので、すぐわかると思う。 |
さて、本日の成果である。 縄張り図の上部が北である。 ① 当城の最頂部に続く坂?斜面?である。 ダラっとしていてイマイチパンチが効いてない。 最頂部まではこの様な斜面が続いている。 では、ここから下方に向かってみよう。 最頂部に通じる手前の枡形門②である。 写真ではちょっと分かり辛いので横写真に色つけをしてみたので、お分かりになると思う。 枡形門を下ると土橋があり、その先に今度は珍しく③外枡形門がある。 外枡形門には装飾で使われたのか、大きな岩が配置されている。 今度は外枡形門側から土橋方向を望む。 ここの造りは見事だ。 外枡形からは、広く細長い曲輪が南北に展開していが、 その曲輪下の腰曲輪に、おそらく当城で最大と思われる④竪堀が残る。 ・・・しかし、写真だと全く雰囲気がわからないな。 一生懸命写真を撮ってみたが、迫力がまるで伝わらない。。。。 なれない体で山を登ったり降りたり。。。。もう、体がボロボロだ。 |
さて、危険なので見学は全くおすすめしないが、 既存の縄張り図には描かれていない堀切を発見したので、ここに記したい。 ◆電子国土より 場所は上図の●あたり。 新発見の遺構である。 写真対岸に見えるのは、根古屋城の現在の最頂部。 発見したのは、小さな堀切で、 土橋で繋げ、両側に竪堀を落としている。 写真は北方向から南に向いて撮影している。 土橋部分を拡大。 東側の竪堀である 反対側の竪堀である。 堀切を南から見る。 この堀より南側に続く尾根に遺構は無い。 よって、この堀切が根古屋城の最南端ということになり、 根古屋城の城域がわかった事になる。 それと同時に、残念だが石灰の採掘で、 主要部分がかなり破壊されてしまっている事もわかった。 現在残る最頂部を現地案内板【本郭】と称しているが、 もっと上に本当の主郭があったかもしれない。 ということで、当方の縄張り図には、【最頂部】と記しておこう。 。 |
PM3時過ぎ 帰りにもう一度、氏邦桜。 やっぱ、もうちょっと早く来れば良かった。 |