埼玉県の中世城郭 



 

小川町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 『竹沢二郎(館)』 青山城  高谷城(こうやじょう) 腰越城 武田信俊城(写真掲載のみ)  高見城(四ツ山城) 中城



『竹沢二郎(館)』   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 つまらん! 2021/09/05
このところ天気も悪く、しかもまだ9月というところもあり、ずっと遺構の無い城めぐりばかりしている。
まったくの不機嫌状態である。
今回も仕方がないので”竹沢二郎館”なる城に来てみた。
地元竹沢氏の城ということで、『日本城郭大系※』には、地元雲龍寺の東の谷に、三段の曲輪が描かれている。
しかし、どうしてこれが城の遺構と判断できるの?
よって、本サイトでは 「
遺構なし」と判定させていただこう。
要は、
つまらん!

雲龍寺の入口

















雲龍寺の本堂の横に・・・池の跡がある。
ネットで、これを堀と勘違いしている人がいるようだが、間違いですよ!

















雲龍寺の上方に熊野神社がある。
城郭大系では、この東側の谷間を三段の曲輪としているが・・・・・・・
















確かに平らになっているかも知らんが、こりゃダメでしょ。
畑か建物を建てた跡でしょ!
とても城の遺構とは認められません。
つまらん!


どちらかというと、この寺の背後の山のほうが城としては怪しいと思う。
しかしこの季節、道なき道を行くわけにもいかず、諦めた。



(────以上────)




※日本城郭大系 第五巻 児玉幸多 坪井清足監修  新人物往来社 昭和五四年
 
 【既存縄張り図の評価】 ダメでしょ。

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中城(なかじょう)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 凄いかも(゚o゚;;) 2021/5/16

中城の読み方は 「ナカグスク」 ではなく、 「なかじょう」 である。(この冗談がわかる方は、なかなかのお城ファン)
各資料では 「遺構がよく残る城」 と紹介されており、その写真を見ると、非常によく整備されていそうだ。
草も多い季節になってきたが、
 「ここならなんとかなるかも?」 ということで、出かけてみた。

時刻は朝6時15分。
こんな朝早くから城を見る馬鹿は、俺くらいか?

埼玉の城の悪い所は、とにかくどこに行っても
駐車場が無いことである。
ここんとこ、毎回苦労している。
今回はバイクでさえ、置くところが決まらない。
最終的に落ち着いた場所が、城跡北部の陣屋沼公園である。
ここには、車も2台ほど留められるようになっているが、すぐ埋まりそうである。
















この公園から山を直登すれば、早速綺麗な堀が見える。


おー!












主郭内部に入る。

ここは万葉集を翻訳したという「仙覚律師」を記念し、整備した公園となっている。
仙覚律師は、小川町で万葉集の編纂作業をしたとされる。
















またテニスコートにもなっている。
















【解説】




さて、主郭内部を詳しく見ていこう。
周辺を見渡すと神社?がある。
いやいや、”半僧坊権現堂” と呼ばれる寺院だそうである。
とにかく高い土塁となっていて、一瞬にして矢倉台だとわかる。







寺院の外側には、空堀が巡る。
左写真の奥、階段のところに注目して欲しい。










ここは、土塁が切れており、虎口と考えられる。
堀の高さが揃っており、おそらく両岸は「木橋」で繋がれていた。
こうすると、矢倉台から木橋へ横矢がかかる。
矢倉台の意味も良くわかる。








虎口と木橋跡から、堀に沿って歩いてみよう。

城内側の切岸が高くなっている。
この普請の意味は、写真左手が台地続きだからであろう。









台地端で、堀は90度転回し、北斜面に沿うようになる。

城外側は斜面縁の土塁となる。
下方にはバイクを置いた陣屋沼が見える。











この陣屋沼に沿う堀には2つの折れがあり、横矢を掛けている。
堀の中は、見通しが効かない。
折りを重ねるという所で、築城者の発想の新しさを感じる。













最東端は緩い竪堀状となっており、堀は収束する。
左写真奥に見えるのは、先ほどの折・横矢である。
お分かりになるであろうか?











繰り返しになるが、地元ではここを、中城跡という 「城跡」 と言うより、
読めなくなった万葉集を翻訳したという 「仙覚律師」 の編纂場所として意識している。
周辺の碑は万葉集のものばかりである。
これだけ立派に残っているし、下草刈りの整備も行き届いているので、
もっと 「城」 としてPRしてもらえたらな、と思うのである。。。。














遠望である。

城は江戸期も ”陣屋” として使われたようである。
パッと見、単郭のように見えるが、台地続きにも遺構があったかもしれない。
残念ながら、今は皆無である。












【⠀既存縄張り図の評価】残存遺構は単郭なので、皆さんそこそこ

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高谷城(こうやじょう)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください




   この城、なんか中途半端なんだけど、凄いかも(゚o゚;;) 2021/2/28
   ※まず、注意喚起させていただこう!

この城の竹林に注意である。
城の周囲には、なにしろ立派な竹林がある。
しっかり管理されているようだ。
おそらく、筍を生業にしている方の畑だと思うので、春の見学は絶対辞めたほうが良い。
筍泥棒と間違えられる可能性がある。
 
      さて、
城に行くためには、国道254バイパスの高架下の分かれ道を探そう。
写真
部である。
当時は橋梁の工事中で、周囲の雰囲気が違っており、
この場所を探すのに、とても苦労してしまった。
     バイクは少し離れた高架下に置き、早速調査開始だ。
     きほどのの道を少し行くと、Y字に出る。
迷わず右の山道に入っていただきたい。

しばらく歩いて、右手に広がる尾根上が高谷城(こうやじょう)だ。
   
     
まず目に飛び込んで来るのは、大きな土橋を持つこの堀である。
しっかりとした堀である。

不思議なのが、この土橋は堀対岸の壁にぶつかってドン詰まり。
ここから先は、壁を直登させたのであろうか?

もう一つ不思議なのは、この堀は土橋の先で直角に曲がり、
台地を分断する訳でもなく、途中でプツンと途切れてしまう。
     


堀の縁辺には土塁が伴うが、これがどうにもシックリいかない。
写真は、若干登りながら堀に沿う土塁である。
     

この土塁を西にたどると、極端に薄くなり消えてしまう。
先述したプツンと切れた堀と挟んで虎口のようにも見えるが、
何とも言えない。

写真は先端の土塁虎口?
を東から見ている。

とにかく異様な感じはするが、
見方によっては、しっかり横矢の掛かった堀なのである。

     

次に、主郭に向かう。
写真は主郭西側の堀である。
遺構は浅いがしっかり残っている。

堀から主郭に上がってみる。
ところが主郭の切岸は全くしっかりしていない。
なにしろ主郭内部がボコボコで、平面とは言えないほど荒れているのだ。
どなたかが、
『ここは造りかけの城である』
と言っていた記憶があるが、一理あるなな。
    ◆YAMAPより

主郭先端に行ってみた。
先端部も堀が巡る。
観察を進めると、ほぼ全域に堀が回っていたようだ。
しかしながら南辺の堀ははっきりしない。
ここにある土橋状のスロープを虎口とする考えもあるが、
木を抜いた時の崩れにも見える。







     

東部の堀は、しっかり残っている。
     国道から見た高谷城。
この城の築城者を上杉氏に求める人もいるが、
イヤイヤ、この横矢構造はなかなか上杉氏には難しいのでは?
後北条氏の可能性も取っておきたいうというものだ。
   【既存縄張り図の評価】 
 西股総生氏が『城取りの軍事学』( Gakkenパブリッシング 2013年)で、主郭への土橋虎口を描いている。
 しかし、管理人にはどう見てもそんな立派な物には見えないが、そうなると明瞭な主郭への虎口が見当たらない。。。。
 この城は、とにかく中途半端な感じがして、そのような所が ”城” ではなく 『砦』 とか 『建設途中の城』 とか言われる所以なのだろう。
 しかし、なにかのコンセプトを持って築かれたのは間違いなく、この形態で城として完成し、目的を果たしていたのではなかろうか。
 とにかく、不思議な城である。

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武田信俊城(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

  う~ ( ̄▽ ̄;)    2018/12/31
 
【解説】

   1575年(天正3)長篠合戦で討死した武田信実(武田信玄の異母弟)の子供が武田信俊である。
   彼は武田家滅亡後、徳川氏に従い、その後比企を知行し川窪氏を名乗る。

    
   
   
城址とされる輪禅寺は、1608年(慶長13)信俊により、一族の菩提寺として建立された。
   境内には一族の墓が多数残る。

   お寺は小高い丘の上にある。
   近くを国道254バイパスが通っているが、その喧騒もない。
   田園を上から眺められる、のどかな場所である。
   一部の資料では、土塁が残る?とも書かれているが、決定的に城の遺構と言えるものは無い。

   境内には累代の墓が残る。
   大きな宝筐印塔であり、かなり新しそうで、中世の匂いはしない。
   
   たくさんありすぎて、どれが信俊のものであるか分からなかった。

                      


 【既存縄張り図の評価】 評価できる図面は今のところ無いというより、遺構が無いから図面にしようもない。

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腰越城sk  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


    ■マウスを乗せよう → 管理人の考える木橋位置です。
            

 まとめ!(^-^) 2019/03/02
  【解説】     
      今回の調査の中で、遺構の解釈で気づいた事を本城のまとめとしたい。
   ①道について  
     ■登城路(あ)について

 この城の登城路について考えてみよう。
 地籍調査をしていないが、この城の根小屋は主郭西面の川べりの狭い平坦地である。
 つまりは、大手は山の西側となる。
 敵の攻めてくる方向を城の東面と想定し、根小屋を西背後にしたのだろう。
 そのため、この城の西斜面には縦横無尽に道が残る。
 中でも
(あ)は根小屋地区まで続くシッカリした道だ。
 ところが、既刊の城の解説本には、この道を真剣に取り上げている物は無い。
 というより、この道痕を遺構として捉えていないのだ。
 これはマズイだろ!。。。と、管理人は考えている。
 
 しかし、残念ながらこの大手道は主郭までたどれない。
 根小屋まで続く
(あ)の道は、二重堀切手前のA地点で途絶えてしまうのだ。
 この途絶え方は普通ではなく、管理人は山が崩れて道が無くなってしまったのだろうと考えている。
 
(あ)の道は主郭までかつて繋がっていたのではなかろうかと言うのが、管理人の推理である。
 
     ■道(い)について

 左図の堀切の先は、斜面を下る道状の遺構である。
 ここを ”腰曲輪” とする解説本もあるが、曲輪にしては傾斜がきつすぎる。
 なので、これは道の遺構であり、”腰曲輪”では無い。
 現在も道痕が残っているが、ここから二重堀に向かっては、
 直角に道が下っていた(
赤線)と解釈する。
 堀の中に、土橋状の遺構があるのも、その証拠ではなかろうか

 また、(う)を往時からの道とする本もあるが、その先は堀切に入ってしまう。
 これは、マズイでしょう!
 (う)は近代の道と考えたい。
      ■道(え)について

左図の竪堀は、”竪堀” として解釈されているようだが、(本図でも竪堀風に書いてあるのだが・・・)
これは道で削られた竪堀状の溝ではないかと考える。
理由は溝を上がりきったところで、直線に伸びる石列があるのだ。
これは、祠に向かう参道のような気がしてならない。
つまりは、祠がこの曲輪の土塁上にあって、そこに行き来することによって溝状の道ができ、
それを竪堀と解釈してしまっているのではないかと。。。
この溝が短く、しかも、横堀に対して斜めに切り込んでいるのも違和感を感じるのである。

ところが、この曲輪には主郭に続く木橋が残る。
つまりは、
(え)は祠への参道である前に、かつての登城路であった可能性があり、
竪堀では無いと解釈した。
   ②城内の木橋について 
     
■木橋の多用
 腰越城の構造で驚くのは、木橋をやたら使っていることである。
 木橋は合戦の際、戦闘状況に応じ破壊していくと言われている。
 橋を壊すことで、敵兵の動きを食い止め、反撃に転ずる事が狙いだ。

 一方、壊した橋は二度と渡れなくなる。
 城内兵側から見れば、ある意味、自らの退路を絶つ危険な構造とも言える。
  ”復元イラストでみる「東国の城」の進化と歴史”(※1)によれば、
 戦闘に応じ、逃げることを想定しているのであれば、曲輪間の連絡は土橋で繋ぐというのだ。
 腰越の木橋に対するこだわりは、戦って戦って戦い抜いて、
 最後は主郭で応戦という覚悟の現われだという。
 
 しかし、管理人は思う。
 木橋を潰しても、逃げ道はそこかしこに残されているのではな
かろうか?
 例えば、主郭下では、ひとつの木橋を壊しても、必ず別の方向に逃げ道はあるのだ。
 主郭もドン詰まりと言われているが、
 管理人は主郭から直接西に下る道があったのではないか、と考えている
 理由は、①でも述べたが、急峻な主郭西側の斜面には、
 山麓の根小屋地区に降りる道がたくさん残る事である。
 
(あ)の道も、主郭に向かいつつで途切れる。
 何故か主郭西の竪堀は、斜面の途中から始まっている。
 これは、主郭西面が崩れてしまった証拠なのではなかろうか?

 今は崩れてしまったが、
 主郭からも、直接根小屋方面に向かう道があったと言えないだろうか。
 
     (おとり)虎口じゃなくて木橋!!

 また、現地解説文の ”(おとり)虎口” なるもの。
 これはダメである!
 堀に誘い込まれ、そのまま袋小路となって騙し討ち・・・・というのが 
 所謂 ”囮虎口” と語っているらしいのだが、
 管理人の観察では、
 ここには、れっきとした木橋が掛かり、しっかりとした虎口構造を取っている。
 ただちに、この誤った解釈を撤去していただきたい。

 ここには下写真のような石垣が残る。
 この横には木戸のような虎口があった。
    こから道は、上段の曲輪にあがり、木橋となる。
木橋のたもとには、補強の石垣が残る。(左写真)
主郭下からわざわざ曲輪を張り出たせ、
縄張り図のように←後方から狙う。
ここが木橋であった証拠だ。


この周辺のルートについては、ピンク線で示しておく。
ご参考にされたい。
      ■主郭下の枡形門
この木橋には、枡形門が直接連動している。
木橋の使い方としては、この城の中でもっとも巧みである。
場所が違うが、写真のような竪堀を横断する木橋があったのであろう。

 
  総じて腰越城は非常に巧みな城である。
 この技術は後北条氏と関係を持ってからの上田氏の築城で間違いなかろう。
 とすると、それ以前のものが安戸城ということになるのだろうか・・・・・??

参考文献 (※1)西股総生  河出書房新社 2016年
   【既存縄張り図の評価】 既刊本の縄張り図・現地解説と管理人の縄張りの見解には、大きな差がある。

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高見城(四津山城)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください





 第3回 修正調査とまとめ     2018/3/24
 【解説】
     どーも気になるところがあるので、修正調査に出かけてしまった。
今回の調査は、この城の大手、及び山麓遺構の調査である。

    

     いつもの場所にバイクを停めて、ふと神社石碑に目を向ける。
すると、
神社の参道は大正一四年に峻険なりし参道を磴(いしさか・いしだん)にした”
と書いてある。

つまり、
現在の参道は近代に作られ、昔とは違っていた事になる

この事実は、後ほどの考察に繋げていこう。

     



いつものとおり、二の郭まで上がってきた。
左写真は二の郭と主郭の間の矢倉台的な小スペース。

今日のお題は、大手筋と考えた二の郭下尾根の再調査だ。

二の郭コーナーから、早速斜面に突入した。

     降り始めるとすぐ、薄いがまっすぐ下降する竪堀が認識できる。
 管見の限り、既存縄張り図は、この遺構を描いているものは無い。

    
なんで、これを見逃しちゃうんだろなぁ~??
     ・・と、思いながら斜面を下ると、尾根上の小郭①にでた。
 小郭①には竪堀に沿って小さな土塁がある。
 5m×7mほどの曲輪で、南に神社参道につながる細い道が確認できる。
      さらにここから10mほど下ると、
嘴状の虎口と思われる
小郭②に出る。
①曲輪 よりは広い。

ここから①までは、通路があったと思われるが、今ははっきりしない。
     さらにここから十五mほど下ると、帯状の小郭③に出る。
 同じく小郭③から②は、道でつながっていたと思われるが、はっきりしない。
 ③には土塁が付随しており、この尾根に対しての堀切のような役目をしていたのだろう。
 曲輪東端には竪堀があり、谷筋まで続いている。
 管見の限り、既存縄張り図は全てこの竪堀も見逃している。


◆左・小郭③東端の竪堀
   よく観察すると、小郭①②に沿った竪堀は、の坂道と合流している。
 この④は道状の遺構であるが、竪堀であった可能性もある。
 小郭③曲輪西端には、この④と挟み撃ちで虎口とも言える所があり、ここから道が尾根に若干残っている

 ④の続き
は、さらに二の郭/三の郭間の竪堀の谷まで続いている。
 
さて、この尾根のみが、かなり山麓に向かって加工されているのは何故であろう?。
他の尾根は、最高でも一段から二段程度の曲輪しかないので、不思議に感じたのである。

・・・ということで、
管理人は、
この尾根が当城の大手筋ではないか?と思うようになった。
大手筋であれば、この尾根の先に山麓の遺構(城下町や、城郭施設)の存在が期待できる。
また、この尾根周辺の谷筋にも、城郭遺構が期待できるのではないだろうか!?
(※1)


 と、期待はしたものの・・・・・

残念ながら、この尾根筋先に山麓遺構を発見することはできず、
城の大手筋の決定打は出てこなかった。
また、この尾根と神社大黒天の祀られる尾根の谷筋にも、遺構は検出できなかった。

←写真は大黒天の怪しいと思った谷筋。でも明確な遺構は無い。


つまりは、この城は山麓に居住区間など持たず、山上のみの 「物見をして戦うだけの城」 という解釈になる。

(※1 他県ではあるが、栃木県に粟野城という城がある。この城は従来、山上の遺構のみが取り上げられていたが、近年尾根に挟まれた谷筋に大きな城郭遺構が発見された前例がある)

   さて、そうなるとこの城の大手筋は他にあるのか?。
 先ほど話した小郭①~④の尾根(便宜上g尾根とする)も、山麓遺構や道がないからと言って候補から取り下げたわけではないが、

他としては、

  a 主郭東の尾根道
  b 主郭南の尾根筋
  三の郭南西の尾根筋
  3の郭北の尾根筋
  3の郭北東の尾根筋
  現在の神社への舗装道

 がある。

 しかし、遺構のない e は除外する。
 b、cも登城路として機能はしていた様だが、
 山腹の遺構がgより少なく、大手筋という感じではない

 は前段でも申し上げたが、大正に作られた山道だ。
  まことしやかに、この道を大手と考える資料が多いが、
 筆者は大手筋の可能性はかなり低いと考えた



  
 最後に残るには a である。
 ここは、”犬走” と称され、”城の遺構として認められた道” から続いている。
 犬走に続く大きな曲輪  あ もある。

 ところが  は果たして城郭遺構なのか???  と管理人は思っている。
 曲輪内をよく観察すると、50センチ×5mほどの四角い溝がある。
 トイレや何か小規模の建物が建っていた跡のようだ。
 つまり、この曲輪  は、近代に造成された可能性がありそうだ。

 またaには、主郭から東に向う山道があるが、敵の侵入を防ぐための大きな竪堀の横だ。
 この竪堀は、このa尾根を潰すためにある。
 そのような場所に、いきなり主郭に入れる大手道をつくるだろうか?
 ダイレクト過ぎないか。
 往時からの登城路とするには、やはり慎重を期する。
 
 そこで気になるのが、本稿前段で出てきた 神社の参道は大正一四年に峻険なりし参道磴(いしざか)にし” である
 
現在の参道は大正十四年にできた。
 つまり、峻険なる参道たるものが aの道 ではなかろうか。
 そこで、神社参拝のために  にお休み処のような建物があったのでは?と考えられないだろうか!
  結論として、山麓遺構は見つけられなかったものの、その厳重さから
やはり g 尾根が、大手筋のような気がしてならない。


左図はg尾根のルートの想定。
ピンクと赤のラインが考えられるが、果たして・・・・・??。

なみに既刊の解説書では、この高見城を一五世紀の高見ヶ原の戦いと関連付け、山之内、扇谷時代の上杉氏時代の城とするものが多い。
しかし、管理人は比企地方に多い虎口形態や、小尾根をつぶす竪堀の使用の一致から
後北条氏関連の城とみている。

                                         
 
参考文献 埼玉県教委/現地縄張り図  
        図説中世城郭事典埼玉県編/新人物往来社
        埼玉の古城址/有峰出版新社/中田正光著  



                   (おわり)
 【既存縄張り図の評価】 管見の限り、既存縄張り図の調査は竪堀などの見落としが非常に多い。




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青山城電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください






 やっぱり、この頃の俺はケツがかった     2020/05/03、05

 この城に最初に来たのが1991年であるので、いまから29年前の調査ということになる。
 昔と違い、今は道も整備され、城には行きやすくなった。
 立派な道標とハイキングコースが、間違いなく城跡まで導いてくれる。

 今回管理人は、合計3回、割谷方面から山を登った。
 ここには板碑製作遺跡、『割谷遺跡』があるので、合わせて見学をお薦めしたい。
 緑泥片岩の欠片の集合体のような山容は、見ごたえがある。
 この遺跡見学用に、車の駐車場もあるので、青山城踏査にも使えるので利用されたい。



 さて、管理人は追跡戦闘車3号なので、林道通行止め地点まで上り、駐車。
 ここから、割谷遺跡入口を右手に見ながら直進し、写真右の仙元山遊歩道に入る。

 





遊歩道入口からは、20分ほど登れば、
なんなく青山城に到達する。










 
 
【解説】
   


◆主郭

 主郭は40m×60mのほぼ長方形である。
 内部に大きな四角い土壇があるが、矢倉、天守のような、象徴的な建物の存在を伺わせる。
 


 ●主郭虎口について

 主郭の虎口は①南東、②北、そして③南が考えられる。


 ①南東の虎口

 南東の虎口 を虎口A とする。
 Aを出ると、半月型の 曲輪B に出る。
 通称 ”虎口受け” と言われる空間だ。
 Bを西に少し進み、ここから先は、三の郭に向かう道と、
 主郭南の帯状の曲輪に向かう道に分かれる。

 ちょうどこの分かれ道の前面に、小区画C がある。
 ぱっと見、 ”馬出し” とも解釈できる空間だ。

 現在のハイキングコースは、主郭へ直登しているが、
 管理人は後世の改変と見ている。






②北の虎口

 北の 虎口E にも 虎口受けとも言える 曲輪F がある。
 
 前面に深い堀もあり、まったく①と同じパターン。
 堀を隔て、小さな 曲輪G があり、
 FとGは細い土塁部分に小さな橋が掛かっていた可能性がある。

 Gの先は尾根続きの自然地形となり、北の遺構はこれで終わりである。









       ◆曲輪G・・大きな堀で囲まれている
       


 


③主郭西~南側の虎口
実はこれが問題である。
 この方面に虎口があったことは間違いないのであるが、良くわからない。
 ①②のように、虎口としての明確な土塁の切れ目が無いのだ。
 
 考えられるのは以下、
Ⅰ,Ⅱ,Ⅲの3パターンである。。
 












 
 一つは現在のハイキングコースのように、二の郭から直接土塁に登らせるもの。
 主郭の張り出し部からも横矢が掛かる。

 しかし気になるのが、この土塁上に残る多くの石である。
 この土塁にのみ露出している。
 これは、この土塁全体に石が張られていた証拠であろう。

 よって、ここは敵に驚異を感じさせる、”見せる石垣、防御で使う石垣” だったと考える。
 そのような石垣に、わざわざ通路を作り、直接登らせるであろうか?



     
『そこがどうにも合点がいかない』

  
















 もう一つは、南に張り出した横矢部の南隅から主郭に入れるというもの(※文献)
 この横矢部には綺麗な石垣が見て取れる(左写真)
 しかし、ここもⅠと同様、1mほどの切岸を直接登らせることになる。
 これも納得いかない。

 この城のコンセプトとして、非常に通路がしっかりしている事が挙げられる。
 他の通路は、堀底、土橋に沿って綺麗にトレースできる。

 なので、『通路として切岸を直接登らせる』・・・というのが、果たして有りうるだろうか?。
 Ⅰ,Ⅱともに直接過ぎるのである。









 
 
 あともう一つは管理人の1991年の図面に示したパターン。
 主郭南壁面を伝い、甘い壁が途切れたところで主郭に入るもの。
 
 確かに、主郭南面は妙にダラッとした緩傾斜になっており、
 主郭の切岸壁面と区別があまりつかなくなっている。

 候補として、Ⅲ-1から主郭に入る。(1991年の管理人図面と一緒)
 または、Ⅲ-2まで歩かせ、一折れさせて主郭に入る可能性を挙げておこう。
 管理人としては、これが一番可能性が高いと思っている。
 ◆主郭内部



 ●小区画Cについて 

 先述したが、主郭に付随する面白い郭がある。
 それが小区画Cである。 
 この曲輪の機能について考えてみたい。

 
 Cからは三の郭へ D が付随する。
 これを、”土塁” とみるか ”土橋” とみるか で意見が分かれるところだ。
 土橋の場合、三の郭への直接通路となる。

 しかし、どうにも管理人には合点がいかない。
 土橋にしては、細いし、先細りなのだ。
 他の土橋は、2mほどある太い物ばかり。
 よって、管理人は 『土塁』 の可能性を指摘したい。

 三の郭へは、先ほどの小区画Bと土塁Dの間(堀底部)を下り、
 堀切に降りてから、三の郭へ通じていたと見ている。
 C にはその通路見張りの矢倉台があった。
 Dには矢倉から通じる板、または土塀等があったものと推察する。
 (※文献では土橋としている)


  小区画Cの写真。                                             
    


  


   


 ●その他主郭内部ついて
 

  


主郭内部には、不自然な土塁がいくつかある。
写真は枡形門のようにも見えるが、なにか建物の仕切りと考えた。






 

主郭まわりの土塁は太くて低い。

このような土塁は火縄銃を意識しているという。
玉を込め、すぐ発射体制に移れるという。

城は鉄砲が主力武器の時代に作られた証拠と言えよう。    












◆二の郭

 
◆管理人図面・・いつ描いたんだろう?昔過ぎて忘れた
 二の郭には大きな(くちばし)状の張り出し部があり、非常に特徴的である。
 全く同じ遺構が、狭山市の柏原城にもある。

 柏原城は、川越夜戦のために上杉氏が築いた城と言われているが、
 青山城には、その上杉の息は全くかかっていない。
 ここは紛れもなく後北条氏の城だ。
 つまりは、柏原城も上杉氏の城ではなく、後北条氏時代に改変されたのでは?と思ってしまう。。。


 あ、いけね、・・・・話がそれてしまった。




 ◆マウスを乗せよう(スマホの人は、触ると画面が先頭に戻ってしまいます。ご容赦)
 


 
さて、ここの通路であるが、
通説では張り出し部の横の堀底を上がり、土塁の切れ目から二の郭に入るというストーリー。
確かに現在もそのように道がある。

しかし管理人は木橋説を取りたい。
理由は、堀の末端切岸が、二の郭下で非常にはっきり残っていること。
この堀は ”閉じている” と判断した。
つまりは、人が歩くようにしていない。

よって、管理人は城外から二の郭へ向かうときは、
竪土塁を上がり、その頂上部の木橋を渡っていたと見ている。
 



 木橋を渡ってからは二の郭に入るが、そのあとの通路としては、どうだろう。
 実は、遺構が曖昧なところがあって、ここは悩みどころ。
 通説の『』のような気もするし、『い?』の可能性も指摘しておきたい。


◆三の郭

 主郭と三の郭との間には、大きな堀切がある。

   
 
 この堀切を隔て、三の郭に入る。
 
 

 あまり力が入っていないのか、内部はあまり加工されず、ほぼ自然地形と言って良い。
 ただ、城外とはしっかりとした堀切で遮断する。
 






よく見ると、ここの堀切は花園城、小倉城と同様に、岩盤削り出しだ。
お互いに息が掛かっているとしか思えない。
 





◆通路




お気づきだろうが、南の尾根から主郭まで、綺麗な帯状の曲輪が南北に一直線に伸びている。
曲輪というよりも、これは登城路であり、兵士の移動用通路であろう。
主郭、二の郭間には虎口跡もある。
常に城内から見下ろせるようになっており、主郭へのメインストリートだったに違いない。















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さあ、2日間の調査は終わり!
追跡戦闘車が待っている。
縄張り図でも浄書するか。


 さあ、帰ろう!
 春の日差しに映し出される山道は、なんとも美しい。

 30年前、同じ道を歩いた自分を思い出すと、なんだか感慨深い。

        














※秩父路の古城址 / 中田正光著  有峰書店新社  昭和57年 

                                         (おわり)
  【既存縄張り図の評価】 俺の図面も大したことなかったので、ノーコメントとする


  補足調査 やっぱ今もケツがい!    2020/05/08
 
 2日もかけて青山城に行ったのに、図面を描き直していると、どうも怪しいところが出てきた。
 ”あれ、こここうだっけ?” とか、旧図には書いてあるが、今回の図面には書いてないとか・・・・
 そんなことを考えていると、 ”こりゃ、もう一度いかなくちゃな” と思えてきた。
 やっぱ、俺の今の調査もまだまだだ。
 ”ケツが
青いなぁ~”

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 今日の天気は良い。
 しかし、時刻は既に14時40分を回っていた。
 明日から残りのゴールデンウイークは全て雨模様。

   『いくなら今しかねぇ・・・』
 
 そんな私は既にバイクにまたがっていた。

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 ◆いつもの登山口・・相変わらず通行止め

いつもの現地登山口前についたのが15時09分。
ここから山登りを始め、主郭に着いのは15時30分となっていた。


    ◆主郭前の馬出?横の通路
   


 さて、色々怪しいところを修正して回り、最後に主郭北西に延びる尾根を辿ってみた。
 すると、
主郭天端から少し降りた所に ”石垣” を発見!!

 青山城の石垣というと、主郭南西の土塁上に散乱している物がよく紹介される。
 しかし、石垣は主郭全体に使われていたのではないか。
 特にこの主郭北西面には、結構な石垣遺構が埋もれているとみた。

 
   


 ◆主郭内部・・陽が陰ってきた

時刻は16:00になっていた。
日は長くなったとは言え、さすがに日が傾いてきたことがわかる。
薄暗くはないが、そろそろ撤退した方がよさそうだ。
さすがにこの時間になると、登山客にも会わない。









       
 山を降りいつもの駐車場に着いた。
 時刻は16:30になっていた。

 しかし、新緑が美しい。
 山の空気はコロナ騒ぎを忘れさせてくれる。
 月曜からまた会社が始まる。
 
 世間では外出自粛が叫ばれている。
 でも、こんな山では濃厚接触は皆無だ。
 リフレッシュ出来たので、また明日から頑張ろう。







                                          (青山城おわり)


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