小川町
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
『竹沢二郎(館)』 | 青山城 | 高谷城(こうやじょう) | 腰越城 | 武田信俊城(写真掲載のみ) | 高見城(四ツ山城) | 中城 |
『竹沢二郎(館)』 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
つまらん! 2021/09/05 |
このところ天気も悪く、しかもまだ9月というところもあり、ずっと遺構の無い城めぐりばかりしている。 まったくの不機嫌状態である。 今回も仕方がないので”竹沢二郎館”なる城に来てみた。 地元竹沢氏の城ということで、『日本城郭大系※』には、地元雲龍寺の東の谷に、三段の曲輪が描かれている。 しかし、どうしてこれが城の遺構と判断できるの? よって、本サイトでは 「遺構なし」と判定させていただこう。 要は、つまらん! 雲龍寺の入口 雲龍寺の本堂の横に・・・池の跡がある。 ネットで、これを堀と勘違いしている人がいるようだが、間違いですよ! 雲龍寺の上方に熊野神社がある。 城郭大系では、この東側の谷間を三段の曲輪としているが・・・・・・・ 確かに平らになっているかも知らんが、こりゃダメでしょ。 畑か建物を建てた跡でしょ! とても城の遺構とは認められません。 つまらん! どちらかというと、この寺の背後の山のほうが城としては怪しいと思う。 しかしこの季節、道なき道を行くわけにもいかず、諦めた。 (────以上────) ※日本城郭大系 第五巻 児玉幸多 坪井清足監修 新人物往来社 昭和五四年 ※ |
【既存縄張り図の評価】 ダメでしょ。 |
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中城(なかじょう) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
凄いかも(゚o゚;;) 2021/5/16 |
中城の読み方は 「ナカグスク」 ではなく、 「なかじょう」 である。(この冗談がわかる方は、なかなかのお城ファン) 各資料では 「遺構がよく残る城」 と紹介されており、その写真を見ると、非常によく整備されていそうだ。 草も多い季節になってきたが、 「ここならなんとかなるかも?」 ということで、出かけてみた。 |
時刻は朝6時15分。 こんな朝早くから城を見る馬鹿は、俺くらいか? 埼玉の城の悪い所は、とにかくどこに行っても駐車場が無いことである。 ここんとこ、毎回苦労している。 今回はバイクでさえ、置くところが決まらない。 最終的に落ち着いた場所が、城跡北部の陣屋沼公園である。 ここには、車も2台ほど留められるようになっているが、すぐ埋まりそうである。 この公園から山を直登すれば、早速綺麗な堀が見える。 主郭内部に入る。 ここは万葉集を翻訳したという「仙覚律師」を記念し、整備した公園となっている。 仙覚律師は、小川町で万葉集の編纂作業をしたとされる。 またテニスコートにもなっている。 |
【解説】 さて、主郭内部を詳しく見ていこう。 周辺を見渡すと神社?がある。 いやいや、”半僧坊権現堂” と呼ばれる寺院だそうである。 とにかく高い土塁となっていて、一瞬にして矢倉台だとわかる。 寺院の外側には、空堀が巡る。 左写真の奥、階段のところに注目して欲しい。 ここは、土塁が切れており、虎口と考えられる。 堀の高さが揃っており、おそらく両岸は「木橋」で繋がれていた。 こうすると、矢倉台から木橋へ横矢がかかる。 矢倉台の意味も良くわかる。 虎口と木橋跡から、堀に沿って歩いてみよう。 城内側の切岸が高くなっている。 この普請の意味は、写真左手が台地続きだからであろう。 台地端で、堀は90度転回し、北斜面に沿うようになる。 城外側は斜面縁の土塁となる。 下方にはバイクを置いた陣屋沼が見える。 この陣屋沼に沿う堀には2つの折れがあり、横矢を掛けている。 堀の中は、見通しが効かない。 折りを重ねるという所で、築城者の発想の新しさを感じる。 最東端は緩い竪堀状となっており、堀は収束する。 左写真奥に見えるのは、先ほどの折・横矢である。 お分かりになるであろうか? 繰り返しになるが、地元ではここを、中城跡という 「城跡」 と言うより、 読めなくなった万葉集を翻訳したという 「仙覚律師」 の編纂場所として意識している。 周辺の碑は万葉集のものばかりである。 これだけ立派に残っているし、下草刈りの整備も行き届いているので、 もっと 「城」 としてPRしてもらえたらな、と思うのである。。。。 遠望である。 城は江戸期も ”陣屋” として使われたようである。 パッと見、単郭のように見えるが、台地続きにも遺構があったかもしれない。 残念ながら、今は皆無である。 |
【⠀既存縄張り図の評価】残存遺構は単郭なので、皆さんそこそこ |
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高谷城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
この城、なんか中途半端なんだけど、凄いかも(゚o゚;;) 2021/2/28 | ||
※まず、注意喚起させていただこう この城の竹林に注意である。 城の周囲には、なにしろ立派な竹林がある。 しっかり管理されているようだ。 おそらく、筍を生業にしている方の畑だと思うので、春の見学は絶対辞めたほうが良い。 筍泥棒と間違えられる可能性がある。 |
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さて、 城に行くためには、国道254バイパスの高架下の分かれ道を探そう。 写真→部である。 当時は橋梁の工事中で、周囲の雰囲気が違っており、 この場所を探すのに、とても苦労してしまった。 |
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バイクは少し離れた高架下に置き、早速調査開始だ。 | ||
きほどの→の道を少し行くと、Y字に出る。 迷わず右の山道に入っていただきたい。 しばらく歩いて、右手に広がる尾根上が高谷城だ。 |
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まず目に飛び込んで来るのは、大きな土橋を持つこの堀である。 しっかりとした堀である。 不思議なのが、この土橋は堀対岸の壁にぶつかってドン詰まり。 ここから先は、壁を直登させたのであろうか? もう一つ不思議なのは、この堀は土橋の先で直角に曲がり、 台地を分断する訳でもなく、途中でプツンと途切れてしまう。 |
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堀の縁辺には土塁が伴うが、これがどうにもシックリいかない。 写真は、若干登りながら堀に沿う土塁である。 |
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この土塁を西にたどると、極端に薄くなり消えてしまう。 先述したプツンと切れた堀と挟んで虎口のようにも見えるが、 何とも言えない。 写真は先端の土塁虎口? を東から見ている。 とにかく異様な感じはするが、 見方によっては、しっかり横矢の掛かった堀なのである。 |
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次に、主郭に向かう。 写真は主郭西側の堀である。 遺構は浅いがしっかり残っている。 堀から主郭に上がってみる。 ところが主郭の切岸は全くしっかりしていない。 なにしろ主郭内部がボコボコで、平面とは言えないほど荒れているのだ。 どなたかが、 『ここは造りかけの城である』 と言っていた記憶があるが、一理あるなな。 |
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◆YAMAPより 主郭先端に行ってみた。 先端部も堀が巡る。 観察を進めると、ほぼ全域に堀が回っていたようだ。 しかしながら南辺の堀ははっきりしない。 ここにある土橋状のスロープを虎口とする考えもあるが、 木を抜いた時の崩れにも見える。 |
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東部の堀は、しっかり残っている。 |
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国道から見た高谷城。 この城の築城者を上杉氏に求める人もいるが、 イヤイヤ、この横矢構造はなかなか上杉氏には難しいのでは? 後北条氏の可能性も取っておきたいうというものだ。 |
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【既存縄張り図の評価】 西股総生氏が『城取りの軍事学』( Gakkenパブリッシング 2013年)で、主郭への土橋虎口を描いている。 しかし、管理人にはどう見てもそんな立派な物には見えないが、そうなると明瞭な主郭への虎口が見当たらない。。。。 この城は、とにかく中途半端な感じがして、そのような所が ”城” ではなく 『砦』 とか 『建設途中の城』 とか言われる所以なのだろう。 しかし、なにかのコンセプトを持って築かれたのは間違いなく、この形態で城として完成し、目的を果たしていたのではなかろうか。 とにかく、不思議な城である。 |
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武田信俊城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
う~ん ( ̄▽ ̄;) 2018/12/31 |
【解説】 1575年(天正3)長篠合戦で討死した武田信実(武田信玄の異母弟)の子供が武田信俊である。 彼は武田家滅亡後、徳川氏に従い、その後比企を知行し川窪氏を名乗る。 城址とされる輪禅寺は、1608年(慶長13)信俊により、一族の菩提寺として建立された。 境内には一族の墓が多数残る。 お寺は小高い丘の上にある。 近くを国道254バイパスが通っているが、その喧騒もない。 田園を上から眺められる、のどかな場所である。 一部の資料では、土塁が残る?とも書かれているが、決定的に城の遺構と言えるものは無い。 境内には累代の墓が残る。 大きな宝筐印塔であり、かなり新しそうで、中世の匂いはしない。 たくさんありすぎて、どれが信俊のものであるか分からなかった。 |
【既存縄張り図の評価】 評価できる図面は今のところ無いというより、遺構が無いから図面にしようもない。 |
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腰越城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
■マウスを乗せよう → 管理人の考える木橋位置です。
まとめ!(^-^) 2019/03/02 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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高見城(四津山城) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
第3回 修正調査とまとめ 2018/3/24 |
【解説】 |
【既存縄張り図の評価】 管見の限り、既存縄張り図の調査は竪堀などの見落としが非常に多い。 |
やっぱり、この頃の俺はケツが青かった 2020/05/03、05 |
この城に最初に来たのが1991年であるので、いまから29年前の調査ということになる。 昔と違い、今は道も整備され、城には行きやすくなった。 立派な道標とハイキングコースが、間違いなく城跡まで導いてくれる。 今回管理人は、合計3回、割谷方面から山を登った。 ここには板碑製作遺跡、『割谷遺跡』があるので、合わせて見学をお薦めしたい。 緑泥片岩の欠片の集合体のような山容は、見ごたえがある。 この遺跡見学用に、車の駐車場もあるので、青山城踏査にも使えるので利用されたい。 さて、管理人は追跡戦闘車3号なので、林道通行止め地点まで上り、駐車。 ここから、割谷遺跡入口を右手に見ながら直進し、写真右の仙元山遊歩道に入る。 遊歩道入口からは、20分ほど登れば、 なんなく青山城に到達する。 |
【解説】 ◆主郭 主郭は40m×60mのほぼ長方形である。 内部に大きな四角い土壇があるが、矢倉、天守のような、象徴的な建物の存在を伺わせる。 ●主郭虎口について 主郭の虎口は①南東、②北、そして③南が考えられる。 ①南東の虎口 南東の虎口 を虎口A とする。 Aを出ると、半月型の 曲輪B に出る。 通称 ”虎口受け” と言われる空間だ。 Bを西に少し進み、ここから先は、三の郭に向かう道と、 主郭南の帯状の曲輪に向かう道に分かれる。 ちょうどこの分かれ道の前面に、小区画C がある。 ぱっと見、 ”馬出し” とも解釈できる空間だ。 現在のハイキングコースは、主郭へ直登しているが、 管理人は後世の改変と見ている。 ②北の虎口 北の 虎口E にも 虎口受けとも言える 曲輪F がある。 前面に深い堀もあり、まったく①と同じパターン。 堀を隔て、小さな 曲輪G があり、 FとGは細い土塁部分に小さな橋が掛かっていた可能性がある。 Gの先は尾根続きの自然地形となり、北の遺構はこれで終わりである。 ◆曲輪G・・大きな堀で囲まれている ③主郭西~南側の虎口 実はこれが問題である。 この方面に虎口があったことは間違いないのであるが、良くわからない。 ①②のように、虎口としての明確な土塁の切れ目が無いのだ。 考えられるのは以下、Ⅰ,Ⅱ,Ⅲの3パターンである。。 Ⅰ 一つは現在のハイキングコースのように、二の郭から直接土塁に登らせるもの。 主郭の張り出し部からも横矢が掛かる。 しかし気になるのが、この土塁上に残る多くの石である。 この土塁にのみ露出している。 これは、この土塁全体に石が張られていた証拠であろう。 よって、ここは敵に驚異を感じさせる、”見せる石垣、防御で使う石垣” だったと考える。 そのような石垣に、わざわざ通路を作り、直接登らせるであろうか? 『そこがどうにも合点がいかない』 Ⅱ もう一つは、南に張り出した横矢部の南隅から主郭に入れるというもの(※文献) この横矢部には綺麗な石垣が見て取れる(左写真) しかし、ここもⅠと同様、1mほどの切岸を直接登らせることになる。 これも納得いかない。 この城のコンセプトとして、非常に通路がしっかりしている事が挙げられる。 他の通路は、堀底、土橋に沿って綺麗にトレースできる。 なので、『通路として切岸を直接登らせる』・・・というのが、果たして有りうるだろうか?。 Ⅰ,Ⅱともに直接過ぎるのである。 Ⅲ あともう一つは管理人の1991年の図面に示したパターン。 主郭南壁面を伝い、甘い壁が途切れたところで主郭に入るもの。 確かに、主郭南面は妙にダラッとした緩傾斜になっており、 主郭の切岸壁面と区別があまりつかなくなっている。 候補として、Ⅲ-1から主郭に入る。(1991年の管理人図面と一緒) または、Ⅲ-2まで歩かせ、一折れさせて主郭に入る可能性を挙げておこう。 管理人としては、これが一番可能性が高いと思っている。 ◆主郭内部 ●小区画Cについて 先述したが、主郭に付随する面白い郭がある。 それが小区画Cである。 この曲輪の機能について考えてみたい。 Cからは三の郭へ D が付随する。 これを、”土塁” とみるか ”土橋” とみるか で意見が分かれるところだ。 土橋の場合、三の郭への直接通路となる。 しかし、どうにも管理人には合点がいかない。 土橋にしては、細いし、先細りなのだ。 他の土橋は、2mほどある太い物ばかり。 よって、管理人は 『土塁』 の可能性を指摘したい。 三の郭へは、先ほどの小区画Bと土塁Dの間(堀底部)を下り、 堀切に降りてから、三の郭へ通じていたと見ている。 C にはその通路見張りの矢倉台があった。 Dには矢倉から通じる板、または土塀等があったものと推察する。 (※文献では土橋としている) 小区画Cの写真。 ●その他主郭内部ついて 主郭内部には、不自然な土塁がいくつかある。 写真は枡形門のようにも見えるが、なにか建物の仕切りと考えた。 主郭まわりの土塁は太くて低い。 このような土塁は火縄銃を意識しているという。 玉を込め、すぐ発射体制に移れるという。 城は鉄砲が主力武器の時代に作られた証拠と言えよう。 ◆二の郭 ◆管理人図面・・いつ描いたんだろう?昔過ぎて忘れた 二の郭には大きな嘴状の張り出し部があり、非常に特徴的である。 全く同じ遺構が、狭山市の柏原城にもある。 柏原城は、川越夜戦のために上杉氏が築いた城と言われているが、 青山城には、その上杉の息は全くかかっていない。 ここは紛れもなく後北条氏の城だ。 つまりは、柏原城も上杉氏の城ではなく、後北条氏時代に改変されたのでは?と思ってしまう。。。 あ、いけね、・・・・話がそれてしまった。 ◆マウスを乗せよう(スマホの人は、触ると画面が先頭に戻ってしまいます。ご容赦) さて、ここの通路であるが、 通説では張り出し部の横の堀底を上がり、土塁の切れ目から二の郭に入るというストーリー。 確かに現在もそのように道がある。 しかし管理人は木橋説を取りたい。 理由は、堀の末端切岸が、二の郭下で非常にはっきり残っていること。 この堀は ”閉じている” と判断した。 つまりは、人が歩くようにしていない。 よって、管理人は城外から二の郭へ向かうときは、 竪土塁を上がり、その頂上部の木橋を渡っていたと見ている。 木橋を渡ってからは二の郭に入るが、そのあとの通路としては、どうだろう。 実は、遺構が曖昧なところがあって、ここは悩みどころ。 通説の『あ』のような気もするし、『い?』の可能性も指摘しておきたい。 ◆三の郭 主郭と三の郭との間には、大きな堀切がある。 この堀切を隔て、三の郭に入る。 あまり力が入っていないのか、内部はあまり加工されず、ほぼ自然地形と言って良い。 ただ、城外とはしっかりとした堀切で遮断する。 よく見ると、ここの堀切は花園城、小倉城と同様に、岩盤削り出しだ。 お互いに息が掛かっているとしか思えない。 ◆通路 お気づきだろうが、南の尾根から主郭まで、綺麗な帯状の曲輪が南北に一直線に伸びている。 曲輪というよりも、これは登城路であり、兵士の移動用通路であろう。 主郭、二の郭間には虎口跡もある。 常に城内から見下ろせるようになっており、主郭へのメインストリートだったに違いない。 ______________________________________ さあ、2日間の調査は終わり! 追跡戦闘車が待っている。 縄張り図でも浄書するか。 さあ、帰ろう! 春の日差しに映し出される山道は、なんとも美しい。 30年前、同じ道を歩いた自分を思い出すと、なんだか感慨深い。 ※秩父路の古城址 / 中田正光著 有峰書店新社 昭和57年 (おわり) |
【既存縄張り図の評価】 俺の図面も大したことなかったので、ノーコメントとする |
補足調査 やっぱ今もケツが青い! 2020/05/08 |
2日もかけて青山城に行ったのに、図面を描き直していると、どうも怪しいところが出てきた。 ”あれ、こここうだっけ?” とか、旧図には書いてあるが、今回の図面には書いてないとか・・・・ そんなことを考えていると、 ”こりゃ、もう一度いかなくちゃな” と思えてきた。 やっぱ、俺の今の調査もまだまだだ。 ”ケツが青いなぁ~” _________________________________ 今日の天気は良い。 しかし、時刻は既に14時40分を回っていた。 明日から残りのゴールデンウイークは全て雨模様。 『いくなら今しかねぇ・・・』 そんな私は既にバイクにまたがっていた。 _________________________________ ◆いつもの登山口・・相変わらず通行止め いつもの現地登山口前についたのが15時09分。 ここから山登りを始め、主郭に着いのは15時30分となっていた。 ◆主郭前の馬出?横の通路 さて、色々怪しいところを修正して回り、最後に主郭北西に延びる尾根を辿ってみた。 すると、主郭天端から少し降りた所に ”石垣” を発見!! 青山城の石垣というと、主郭南西の土塁上に散乱している物がよく紹介される。 しかし、石垣は主郭全体に使われていたのではないか。 特にこの主郭北西面には、結構な石垣遺構が埋もれているとみた。 ◆主郭内部・・陽が陰ってきた 時刻は16:00になっていた。 日は長くなったとは言え、さすがに日が傾いてきたことがわかる。 薄暗くはないが、そろそろ撤退した方がよさそうだ。 さすがにこの時間になると、登山客にも会わない。 山を降りいつもの駐車場に着いた。 時刻は16:30になっていた。 しかし、新緑が美しい。 山の空気はコロナ騒ぎを忘れさせてくれる。 月曜からまた会社が始まる。 世間では外出自粛が叫ばれている。 でも、こんな山では濃厚接触は皆無だ。 リフレッシュ出来たので、また明日から頑張ろう。 (青山城おわり) |