小鹿野町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆
②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



小鹿野両谷城(長留)sk  鷹谷城sk  小鹿野要害山城(三山)sk 日尾城sk




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 こじんまり  2023/1/21調査  UP 2023/03/05
 

小鹿野両谷城は、山中の細い県道沿いからアプローチできる。
事前に場所を確認しておかないと、ちょっとわかりづらいかも知れない。

管理人のアプローチを左図に示す。
これと、後述の写真を参考に、臨んでいただきたい。
アプローチの山道は比較的しっかりしているので、
おそらく迷うことはないだろう。

◆国土地理院より


   
 


車はここへ置いた(上図駐車場所)
写真の道路脇、幅広い場所に停められる。

(実はこの直上が城跡であるので、直登も可能である)
 



 
城への道は、写真看板裏手のフェンス沿いに、尾根に沿って進む。
尾根沿いの道はしっかりしており、城跡までちゃんと導いてくれた


 



 

城の遺構として、最初に出会うのは堀切2である。
写真は城外方向から見たところ。
深さは2mほどあ
ろうか。



 

 
堀切2を横から撮影。

堀切2を越えると、郭があるが、内部は未成形のまま。




 

その先に 堀切1がある。
かなり埋まっているようで、堀底までは30cmにも満たない。
堀切の東側を通路としていたような形跡がある。

 


 
堀切1を上から撮影。

左手に入口


 
 
主郭側には土塁も設置されていたようである。

城の構造としては、堀切二本の単純なものである。
城の歴史も明らかでない。

この城の位置は、小鹿野町への入り口にあたるので、最初はこれを監視するために築かれたかと思った。
しかし、小鹿野町中心部との間には「ようばけ」に代表される赤平川の深い渓谷がある。
よって町に対する防備の城とは言えそうもない。
主郭下の県道がかつての街道であり、その街道監視と言った方が、まだ理解できる。
しかし、この道がそんなに重要なものだったのか、ちょっと想像が難しい。

【既存縄張り図評価⠀】 
構造が単純であり、どの資料の縄張り図にも大きな差はない。





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◆鷹谷城周辺全体図

 主郭は中腹だ! 2022/10/29調査   12/17up
 
鷹谷城は、国道299沿いの、東西に伸びる細長い尾根の中腹にある。
曲輪内部は未整形だが、仕切りの堀切や土塁の形態から、築城技術に新しさが感じられる。
後北条氏が甲斐の武田の侵攻に備えたとする考え方は、穏当と思われる。
  
  ◆鷹谷城縄張り図
  
  
 


 この城に登るには、国道299を三山で離れ、
この墓を目指そう。
暗い写真で申し訳ないが、この墓の裏の尾根に取り付いて欲しい。
 




 
尾根に取り付くとすぐ山道が現れる。
今は人の往来もなく荒れているが、しっかり人工的に溝状になっている。
雰囲気は、かつての街道である。
 









 
さて、この道をしばらく登ると、写真の平坦地に出る。
よく観察すると、ここは堀切の可能性が高い。(堀切①)
この写真切岸の裏手に、もう一つ切岸が控えている。
管理人は、この遺構を
堀切を前面にした【食い違い虎口】の跡と見立てている。









 
さらに登ると、しっかりした土橋を持つ堀切に出る。(堀切②)
土橋の両脇には土塁が控えている。
 



 
堀は深さ2mほどのものである。
横から見ると右手(西の山続き)の方が高くなっている。
上位の曲輪は、写真右手と判断できる。




 
 
虎口の開口部分である。
両脇を土塁で挟んでいるのがお分かりになろうか。
 



 さらに進むと再び堀切に出る。(堀切③)
堀幅のある堀切である。

 



 
その堀切を横から見る。
観察すると、山続きより麓に向かう東方向(写真左手)の切岸の方が高い。


   
左手の切岸が高いわけは、写真の土塁に寄るものだ。
この土塁の存在で、城の上位守備方向が、
写真左手(=麓方向)であることがわかる。
つまりは、この城の
主郭というべき曲輪は、堀切②-堀切③間のエリア
と判断できる。








 さらに登ると堀切が再び現れる(堀切④)
堀の高さは東側(=麓側)が高い。
つまりは、城内は東の麓方向であることがわかる。
西の山続きには土橋が設置されている。
これで、先ほどの堀切②-③間が主郭であることが確実になる。
 



 
さらに西に山続きを登ると、祠にでる。
文字がかすれているが、看板も鷹谷城の主郭と示している。

大抵の資料が、
この山頂を鷹谷城の主郭としているが、それは誤りと思われる

鷹谷城の主郭は堀切②-③間で間違いない。






  

ここまで調査して、山を降りた。
既存図を見ただけでは、堀切だけの変な城だな、と思ったが、
実際に歩いてみると、結構しっかりした城であることがわかった。

同時に食い違い虎口や、土塁でしっかり虎口を守るなど、
新しさを感じさせるところもある。

曲輪が未整形であっても
しっかりとした築城思想をもった技術集団が、
最少の土木作業でピンポイントで城の防御を考え、急ごしらえした様相が想像できる。


さて、この城も歴史は明らかではないが、要害山城とSETになって存在し、甲斐武田氏を警戒したという考えがある。
ということは、築城者は必然的に後北条氏系の人たちとなる。
   

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    この日、小鹿野要害山、鷹谷城と年甲斐もなく二つの山を登ってしまった。
遅い昼飯を、途中の間明平公園で頂いた。

ぽかぽか陽気で眠りかけていたところを、ツーリングバイクに起こされてしまった。

もうちょっと、そっとしておいて欲しかったのに。。。。

【既存縄張り図評価⠀】 
図面自体の差はほとんど無いと思われるが、解釈として西の山頂の祠付近を主郭としている資料が多い。
それは誤りだろう。

考えて見れば、そんな事はありえない。
大切な主郭を、防御もほとんどないところにポツンと置いておくわけがないのである。
この城のメインの曲輪は、本ページで述べる堀で挟まれた尾根中腹のエリアで間違いないだろう 。



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   鷹谷城の補佐 2022/10/29調査  12/17up      
  【解説】

小鹿野要害城は、鷹谷城のすぐ裏手の高所に在る。
そのため、鷹谷の補佐と考えれてているが、それはほぼ間違いではないだろう。
遺構も簡素であり、手が込んでおらず、物見程度のものだったと考えられる。

築城目的の一般的な考えとしては、甲斐国からの侵攻を懸念して作られた物とされている。


 

小鹿野要害山城に行くには、
変電所(東京電力・新秩父開閉所)の裏からのアプローチだ。
バイクは広い駐車場に置かせてもらう。
広い駐車場なのだが、ここまでに至る途中の切り返しが、大きな車では厳しそうだ。
来れて、軽自動車くらいだ。



 

 送電線の点検道を利用して、山頂を目指す。
入口はここから


 
 点検道はしっかりしていて、迷うことはない。
途中で道が崩れている場所もあるが、ピンクテープをたよれば良い。
 



 ◆YAMAPより


一つ目の堀切に到着。
 



 


うっすらであるが、間違いなく堀だ。
 



 ◆YAMAPより


さらにその上にも堀切りがある。
こちらは割とハッキリしている。
 



 

その堀切を横から望む。
埋もれているが、よくわかる。
 



 

さらに登ると主郭部へ到達。
主郭部は二段になっていて、写真は下の段から上の段を見ている。
 



 主郭上の段、最頂部には祠がある。
この山の名前は「戸蓋山」、標高615m
 



 
最頂部から尾根は北に延びているが、その尾根が怖い。
両側が切り立っているのだ。
手前のスケッチブックはB4版。
尾根の細さがお分かりになろう。

他のサイトが 「戸蓋峠」 方面からの登城を勧めない理由がよくわかった。

尾根の遺構であるが、この状況であるので、当然これ以上無い。
 




 
今度は主郭最頂部から北東側の尾根に向かう。
写真は主郭上段から北東尾根を見ている。
微妙に加工した曲輪がある。
 



 

その曲輪下には、分かり辛いうだろうが、堀切跡がある。
 



 

さて、再び主郭部に戻る。
これは主郭部下の段であるが、一応、加工されているようである。
 



 

主郭から西に伸びる尾根がある。
一応下ってみると、一瞬堀切か?と思わせる切岸が出現する。
しかし、その先に堀もない。
ちょっと違いそうだ。

調査はこれで終了。
下山に入る。 

繰り返しになるが、この城の歴史は明らかではない。
麓の鷹谷城が甲斐との国境を守っていたという。
そこに近いこの地で、物見的に補佐していたという考え方は納得できるものだ。


 
 再び変電所である。
さぁ、帰ろう
【既存縄張り図の評価】 この城を縄張り図化したものは少ないが、主郭より北東、北西に伸びる尾根の根元の堀切を、どう解釈するかで意見が別れる。


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 女房に守られた城 現地版 2022/10/20  
 
今日は秋晴れの良い天気。
Twitter仲間が、自分の城見学の成果を自慢しているのをみて、シーズンにはちょっと早いが見学を試みた。
目指したのは小鹿野の日尾城。
31番礼所観音院方面から登る。
シーズン初めなので、ちょっときついかな?体調もちょっとイマイチだし。。。


秋寒の朝、バイクをすっ飛ばし、秩父三十一番札所観音院前に着いた。
ここの札所は必見である。
崖からしたたり落ちる滝?も見事で圧巻なのだ。

さて、今日は観音院には寄らずに、山門の仁王様にご挨拶だけ。



足首峠を北に目指す。
綺麗な沢をわたり、登山開始。

 

沢伝いをゆっくり登る。
やっぱ体調があまり良くない。
しかしここまで来ちゃったから、登るしかない。
早速、沢の形相が険しくなって来た。
何しろ大きな岩があちこちに点在し始める。



エッチラオッチラ、牛首峠に到着。
垂直に切り立った岩の切れ目は、日尾の堀切と言われている。
さあ、調査開始だ。




【解説】
 




主郭に到着。
写真は主郭内部の土塁である。
北に向かって配置されている。
 



 
主郭部には小さな祠がある
 




主郭北下の堀切である。
きれいに土を掘り起こした堀切はここ一箇所のみである。
 





主郭から北に伸びるもう一つの尾根にある曲輪。
写真の土塁が枡形門状に鍵型となっている。
北の根小屋地区には、ここから降りる道がつながっているようだ。
 




変わって主郭南の谷中に広がる曲輪。
大きく四段ほど。
 






主郭から「観音山」に向かう尾根を伝ってみた。
堀切も何もなく、遺構は広がらない。

結局主郭部は、「観音山」方面からの敵を全く意識していない。
また同様に、観音寺山門方面からも意識していない。
この城は、敵が北と東西方向から攻めてくる事を想定しているのだ。
このことから通説通り、この城の城主が後北条であり、
甲斐の国、矢久峠方面から来る武田氏を意識したという説明は納得がいく。






 



 
主郭から下り、牛首峠にやってきた。
ここの岩は人工的に削られたような気がする。
2mほどの対岸に、岩盤が見えるのがお分かりになろうか? 
 



 

再び牛首峠である。
綺麗な垂直の崖となっている。

 



 
牛首峠の西側の尾根続き。
峠の岩壁は人が削ったように収束する。
この先に土塁を伴った小ピーク小郭があり、日尾城の遺構は終わるようだ。


変わって牛首峠の南側に広がる巨岩群。
圧巻である。






 

下山に入った。
バイクは観音寺方面に置いてある

時刻はまだ二時なのに、日陰はこの暗さである。
日が短くなったもんだ。
 
登山口に無事到着。
さあ、帰ろう 
 
当城主の諏訪部氏は、武田氏にたいするため、甲斐に対する警護として、後北条氏の配下でこの城を任されていた。
ある日、武田が攻め込んできた日に、城主は酒を飲んで泥酔状態。
代わって城主の妻が、女傑となって、この城を守ったという。

諏訪部氏は、小田原の役後、北条氏直とともに高野山に行き、その後徳川に就いたという。 


 【既存縄張り図の評価】
観音山に続く尾根を城域とみるか否かで評価の分かれるところだ。
この城は、牛首峠を監視する事が目的であるから、観音山方面の尾根は、ほぼ自然地形と考える。
実質、この城は北方面と東西方面にしか、気配りしていない