埼玉県の中世城郭 



 

長瀞町 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



天神山城 仲山城sk


天神山城
   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

  すんげーっ!     2019/4/19  4/29  5/2  5/11 
 
 【プロローグ】

 本ページのコラム よもやま話9◆で紹介した天神山城。
 昭和50年(1975年)当時、若かりし管理人が撮影した写真を掲載した。

    
9◆埼玉・天神山城 1975年9月 ちょっとイニシエ第2弾

よもやま話5◆で紹介した掛川城。

中学校から撮り始めた城の写真が、21世紀では結構貴重なものになっていると気が付いた。

これから折をみて、私が撮りためた写真を、このコラム”ちょっとイニシエ”と称して紹介していきたいと思う。



その
第二弾は埼玉県・天神山城である。
いまを去ること34年前の1975年9月。
私はこの天神山城にいた。

写真の観光用天主は、正真正銘、私がその時撮ったもの。
当時中学生であった私には、この城に入る時に”お金を取られた”という苦い思い出がある。
いくら払ったかは覚えていない。

他のHPを見ると、今もこの天主は現存しているらしいが、全くもって荒廃しているようである。
当時、わたしもこの天主に入ったが、中はお店であったような・・・・。
とにかく、印象がないのである。

とにかく、金を取られたことしか覚えてない...



 これが、40年後の今の姿。
 情けないというか、はっきり言って 「怖い!」
 

  
 
 訪れる人もなく、建物は崩れ廃墟化し、心霊スポットとしても紹介される。
 かつての姿は見る影もない。
 今は、復興天守ブームのような時代であるがこうはなって欲しくないものである。
 言うまでもなく、ここを訪れる人は極度に少ない。
 結局、くだらない観光施設のため、貴重な遺構が失われただけとなってしまった。。。。。。。。。。。
 図面には模擬天守などと書いてしまったが、模造したわけでもなく、
何の根拠もないただの天守風建物なのである。

 長瀞町のホームページなどでは、この城を全く積極的に宣伝していない。
 長瀞自体がライン下りや宝登山など、他にもたくさんの観光地が豊富であり、ここ天神山は ”町の負の遺産” と評価されているからだろう。
 
 城には罪はない・・・・・ まったく可愛そうだ。

  
 
 
【解説】 

 管理人は埼玉に引越し、そう、40年ぶりに天神山城に行くことにした。

 天神山城は後北条氏の城である。

 当初、天神山は藤田氏の居城であったが、北条氏邦を養子に迎え入れ、藤田氏自体は用土に移転。

 その後、氏邦も天神山から鉢形城に移り、北条氏光(or 氏堯?)にその後を任せている。




 

 

 訪城には、城の北方、白鳥神社から山に取り付くことをお勧めする。

 神社裏には駐車場もあり、そこから続く山道がある。
 案内があるわけではないが、迷わず行けるであろう。













 



 前段でも述べたが、かつて山頂には、観光施設として天守風建物も作られた。

 このため、ネット検索すると頂上まで続く広い道が、グーグルMAP等で映し出される。

 しかし、現在道のゲートは閉められ、通行不能なので注意しよう。(2019年5月現在)















◆左・閉ざされたゲート、現在通行不能



 主郭周り 
 


 早速、神社裏の道に取り付く。
 息を切らしながら登ると、大きな 空堀A に出る。

 




この堀を見たときに、
       
  ”あ、この城手ごわそう・・・

というのが、ファーストインプレッション。

さらに小郭を経て最高所に至る。

天守風建物のある場所が、主郭となる。







 

 天守風建物はとりあえず放っておいて、周辺の遺構を確認していこう。
 基本的に曲輪の呼び名は、埼玉県の調査に順じていく。


◆歩いて廻る「比企の中世・再発見」/博物館周辺文化財の複合的活用事業実行委員会
(埼玉県立嵐山史跡の博物館・比企地区各市町村教育委員会)発行
 /平成20年)より引用














主郭下から南に主峰が続く。

大きな堀切Bが、二の郭とを分断する。







 ここに天守風建物とつなぐコンクリート製の橋があるが、何せ古いので気を付けて渡ろう。

   




  二の郭
 


 二の郭には、道路だけでなく駐車場、売店レストラン、トイレ、展望台も作られたため、まっ平にされた。
 写真右手が廃屋となったトイレ、左手奥が先ほど渡った堀切Bである。

         



 二の郭は、いくつかの堀で区分されていたようである。
 しかし、インチキ天守と同時に、売店レストラン、トイレ、展望台、駐車場などで、真っ平らにされてしまった。
 よって、かつての姿は残念ながら見る影もない。


 
 その中で着目したいのが、H の南北の両斜面に残る竪堀群である。
 これらは、破壊された堀の残存と考えられる。
 平面部の堀が埋められ、その両端の竪堀だけが残されたように見える。
 であるとすれば、この H の平面部には、
 ”出郭”のような複雑な遺構があったことも想像できる。

 こんな観光施設建てなきゃいいのに。。。。。。
 無くなった遺構が不憫でならない。

 これについては本稿の下段部で、過去図面の比較、殊に山崎一氏の図面を元に
 考察していきたい




 三の郭
 

 

 それでも二の郭の南には、卵型の 三の郭 が残る。
 ここはある程度往時のままの姿を保っていそうだ。

 全周を堀で囲み、周り込みを避けるための竪堀も良好に残る。

 ◆三の郭内の破壊痕。郭内を削られた跡が残る。                      



ただ、いけないのが、かつてこの周辺では窯業が営まれていたようである。

三の郭内は土取り?、または窯の跡?か、大きくえぐられてしまっている。

さらに言うと、三の西斜面には登り窯の跡が複数残る。

つまり、この城は観光施設だけでなく、窯業によっても破壊を受けているのだ。
破壊のダブルパンチである。

  


 主峰西斜面

 



ところが、主峰の西斜面側は、ほぼほぼ難を逃れたようである。









整備の予定があるのだろうか?
訪城したとき、草木が伐採されてて、妙に見やすかった。
ピンクテープもあちこち貼られている。
なにか整備計画があるのだろうか? 
怪しい・・・・・
  
  



 さて、西側斜面は東側斜面より傾斜が緩く、そこを弱点と感じた築城設計者は、数々の防御施設を施している。

 まず埼玉地方に多い、小尾根を潰す 竪堀C である。
 畝型竪堀群とも呼べるこの三連の竪堀達は尾根を潰すために配置されている事は明らかだ。

  
マウスを乗せよう・・・・三連竪堀


既存の縄張り図は、私の知る限り、当竪堀の意味を理解しておらず、
全て失格である。
なんで、ここだけ三本も並んでいるんだろう?、と思わないだろうか?






この竪堀のドンつきは、石垣となっている。



   











 主郭北側にある横堀と同時に、西側斜面にも多く 横堀D を配している。



   
マウスを乗せよう・・・・ 折リのある横堀D



の中には折りを設けている横堀もあり、その警戒の度合いは半端ない。

  






















主峰最南端には、山腹から発生するおおきな 竪堀E がある。


   









複数個所に石垣(F)を設けているのも特徴的だ。 

これらの石垣が、土留め補強のために作られたものか、
それとも、この上に立つ建造物のための補強なのかわからない。











  ◆F 石垣群  (実はどれがどれだか分かんなくなってしまった。。。。。)
   


   

 
 実は、これら石垣は主峰の東面では激減する。

 あるのはほとんど西斜面であり、図の中に 石垣Fの文字数でお分かりになろう。

 地表面に見えるのは一部で、全斜面に施されていた可能性もある。

 そこで思ったのが、この西斜面は下界から望める場所であり、視覚的効果を狙った可能性もある??のでは?と思っている。

 主郭西直下も切り立った崖であり、それと合わせ要害さを誇示していたのではなかろうか。

 主郭東の尾根
 

 主郭からは東に尾根が延びる。

 この尾根には、いくつかの階段状の曲輪と堀切が配される。


 

主郭下の曲輪であるが、綺麗な切岸である。














そこを下ると、堀を伴った小郭に出る。












   マウスを乗せよう・・・・ 堀切G上の土橋




小郭のさらにその下、最端末は 二重堀G で終了している。
ここには堀切を渡る土橋も見られる。。

回り込みを嫌っているようで、尾根を潰すように北斜面にも竪堀一本施されている。





















 出郭
 

 
       何と言ってもこの城のハイライトである。 よくぞ、残っていてくれた!

 秩父志には「出城アト」との記載があり、この郭の存在は、昔から知られていた。
 この呼称が正確なものかはわからない。
  

 ”出城” というと、天神山本体と別の補強の城というイメージがある。
 しかし、調査してみると、ここは天神山本体に従属し、それを補う施設である。
 よって、本ページでは管理人の調査イメージと合致した、「出郭」としている。












◆”秩父志”の記載 
秩父路の古城址 中田正光著 昭和五七年 有峰書店新社より引用






 

 この出郭は、天神山主峰から東に派生する緩い尾根を加工している。
 まず、天神山本体と続く尾根に、a を基準として幾段か曲輪を配す。

 天神山本体への道はたどれないが、おそらく急斜面を上る道が施されていただろう。

 出郭と天神山本体は、大きな堀切  で分断されている。

       


 
 さて、この
出郭の目的は、なんであろう?
 
結論から申し上げると、緩い尾根からの敵の侵入防御と、水源を守るためにある。


 まず、出郭のある緩い尾根は、城の弱点となる。
 この弱点を潰すために、ここを城郭化したと言えよう。

 また、出郭の南側には、水たまりを守るように曲輪がある。
 この光景を見たときに、ここの目的がもう一つはっきりした。
 「そうか、出郭は、水源を守る施設なんだ・・・」と。
 水場は、gとhが想定できる

 これだけの城である。
 目の前が荒川ではあるものの、戦争になったらわざわざ汲みに行くこともできなかろう。
 直近に、たくさんの水が必要だったのである。

 後北条氏の城には、滝山城や鉢形城の様に水源を確保する郭が存在する。
 まさに、ここものその意図を踏襲している。



        


 ←左写真はの池跡。
  いまでもジメジメしている



     









 写真は池のほとりの曲輪である。
 池を取り込むこのような施設は、後北条氏に多い。
 滝山城や鉢形城など、後北条氏の主要な城に見られる遺構である。

  ←左写真◆井戸曲輪切岸          ↓下写真 ◆井戸址か??
 
  

     
★マウスを乗せよう・・・・井戸跡か???
  



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 話を b堀切 まで戻そう。
 ここからは、城郭好きには堪らないワンダーランドなのだ!

 この堀切の先が、出郭の”主郭” とも言える c郭 である。
 b堀切を境に、よく見るとa郭群側の切岸の方が高い。

 このことから ”出郭は天神山本体側に従属している” 事がわかる。








 



 

 c郭は出郭内で一番広く、不整形な五角形をしている。
 基本、全体に綺麗な空堀を回す。
 横矢のような小さな張り出し部もあり、切岸の発起点にしている。
 殊に北東部の突起は、あまり例を見たことがない。

 堀内の2箇所には、土橋のような遺構がある。
 c郭への入口かとも思われるが、管理人は堀内障壁と見ている。











c郭内の枡形門

この城の中で所謂 「枡形門」 と呼称できるのは、ここ一箇所。
後北条氏の城としては、使用数の少なさに異質な感じを受ける。






   
マウスを乗せよう・・・・枡形部分
  






c郭を出て、きれいな細い土橋を渡ると d郭 である。
 写真はc郭とd郭間の堀切りである。









d郭内に土塁があるのは、
e郭からd郭に入ったときに一折れさせる効果と、
c郭内部を見透かされないためと思われる。








d郭からは、e、f郭 に続く虎口が見られる。
e f は、d郭に対する完全なる角馬出で、
それぞれ土橋で結んでいる。
左写真はdからfに向かう土橋。
人一人通れるかの、きっちりとした細い土橋である。



e郭は不整形で自然地形の部分もあるが、
切岸を辿ると完全なる角馬出しであることがわかる。







 
e郭もf郭も、ここから派生する尾根が二股に分かれるところである。
どちらの尾根も傾斜が甘く、dに対して二重馬出となったのであろう。
よく考えると、出郭の主郭Cから見れば、d、e、f で
三連の馬出とも言える。

各馬出には、これまた丁寧に横堀が施されている。
出郭を見ていると本当に清々しい気持ちになる。

しかし、既存の図面でここ出郭を的確に表現できている図面は無い。
そのほとんどが、ここ出郭の存在を無視している。
出郭を描いたとしても、上記、埼玉県の調査や中世城郭事典※などは、

馬出部の形状も間違っているし、水場を守る意図も伝わらない残念な図面となっている。


という意味では、私の図面がここ出郭構造の初公開の図面と言えよう。(ドヤ顔)






※ 図説中世城郭事典 第一巻 新人物往来社 村田修三編 昭和62年)

 天神山東側谷あいの調査
 

 出郭と谷を隔てて天神山と相対する山塊がある。

 この城跡を調査する前に感じていたのが、この谷あいも城として取り入れられていたのでは?という事。

 栃木県では両尾根に挟まれた谷あいを城域にする例が多くある。

 埼玉県では、小倉城などがその類いであろうか。

 谷が城の弱点であれば、谷あいにも何かしらの防御施設を作る例がある。

 

 


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管理人の予想したのが黄色の谷エリア。
秩父志では、姿は「田」と表現されている。

期待はかなり薄いものの、確かめ算ということで調査した。




◆国土地理院 電子国土より 







調査の結果、遺構はやはり見当たらなかった。

現在は休耕田となっている場所が多く、
谷の中にはg、hから流れ込んだ水が沢を形成している。











この谷中から天神山城主郭部を望む。
頂上部は見えないが、天気もよく最高である。



















 天神山の東の山塊の調査


 谷に遺構は無かったが、更なる確かめ算ということで、谷の東の尾根筋に取り付いてみた。
 ひょっとすると、谷を隔てた対岸に、遺構があるかもしれない。

 
  ◆ 尾根上は自然地形のまんまである

  




 

結果であるが、遺構は全く無い。
記録として山レコで私の登った山塊を示しておく。(左図黄色エリア)


要するに、現在、天神山本体にしか遺構はなさそうだ。


◆アプリ 山レコより







 過去図との比較

 ①群馬県古城塁址の研究 補遺編下巻

 さて、破壊された二の郭を、自分の目で縄張り図にしたと思われる資料は、山崎一氏と下の西ヶ谷氏のものだけである。(私の手持ちではであるが・・・)
 山崎氏に関して言えば、当時、これだけの縄張り図を書ける人はいなかった。
 大体からして、縄張り図自体を本にしようという人が居なかった時代なのである。
 そんな時代に、これだけの本を出せるのは、本当に凄いことだと思う。
      ◆当時の城のバイブル、群馬県古城塁址の研究


   ◆群馬県古城塁址の研究 補遺編 山崎一著/発行書 群馬県文化事業振興会/昭和五四年より引用


天神山城の山崎氏の調査年月日は1972年。
管理人が最初に城を訪ねた三年前に書かれた縄張り図である。

出郭など、見落としがたくさんあるが、現地に赴き描かれていることは間違いない。
「模擬天守」と見えることから、このころからインチキ天守は建っており、破壊は進んでいた。

しかしながら図面をよく見ると、二の郭の状況は現況と明らかに違っている。
三の郭も今より状況は良さそうである。
明らかに山崎氏は当時の現況を描いていると判断した。



それを管理人の図面と比べて見ると、二の郭は下図の赤線が堀だったと想像できる。
細かな事は今となっては何も語れないだろうが、二の郭は、かつて堀で分断されていた。
赤線に挟まれた真ん中の小郭は、機能的に馬出しにも見える。
橋なのか、土橋なのか印刷が悪くて潰れているが、小郭に連絡する物があったようにも見える。






 ②関東の名城 

 ◆関東の名城 西ヶ谷恭弘著/秋田書店/昭和四八年より引用 


こちらの本にも簡単な天神山城の縄張り図が載っている。
西ヶ谷恭弘氏の図面であるが、最南端に 「大堀切り」 と見える。
上記の秩父志では、「大堀ノアト 今田ト成レリ」 とある。
秩父志では田んぼと化した大堀切りを、
後発である西ケ谷氏の図面では「大堀切り」と掲載している。
昭和になっても本当に現存していたのであろうか?
堀の位置は現在の工場跡地の場所と思われるが、平地に均されている。


また、二の郭内に『堀切り』という記載が見られる。
このことから、山崎氏と同じように堀を確認されていたと判断する。

”出郭” に対しては 『出丸跡』 と記載があるが、詳細まではよくわからない。

 
 
 




 
 
【エピローグ】
 案内版一つなく、町に ”負の遺産” のレッテルを貼られてしまった天神山城。
40年前の思い出を胸に、今回再訪してみて、本当に良かった。

その遺構・・・特に出郭は、極めて技巧的であり、眩い光を放っている。
しかし、その光を街の人が気づいてくれるのは、一体いつの日だろう。

     再度言わせていただこう。
 
           ” 城に罪はない。。。” のだ。





                                               (完了)
  【既存縄張り図の評価】 はっきり申し上げて、2019年時点の既存天神山縄張り図は、私の知る限り マダマダ感満載 な図面ばかり。
                天神山本体遺構、出郭の見落とし、遺構解釈の誤り、形状の誤り。。。基本的な誤りや中途半端なものが、いかに多いか。
                管理人の図面も完璧と言えない事は承知の上だが、これらの物よりは
断然マシだと思う。
                本ページの目的は、埼玉のマダマダ感満載図面のブラッシュアップである。
                時間も掛かり苦労したが、今回描いてみて本当に良かった!!と思う。


仲山城sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

  古臭い匂いがする。。。     2019/5/11 
 





国道140号線から小坂の集落に向かう交差点に、日本一大きな板碑、野上下郷板塔婆(板碑)がある。


仲山城は、この板碑の先の独立丘にある。


  
       ◆南方より城を望む
     



 板碑の前の道を北に向かう。
 親切にも仲山城への案内看板があり、そこを右折する。
(同町の天神山城には看板すらないが。。)

 諏訪神社を左手に見ながら進むと、細い林道になる

 


しばらく登ると、峠の手前に、仲山城への誘導看板がある。
そこから先は、完全な山道になっている。











管理人はバイクで来ていたので、この看板をスルーし、峠の切通しを抜ける。
         



 すると、全く知らなかったがカタクリの群生地があるようで、バイクは、この小スペースにとめさせていただいた。

 新緑のみどりが眩しい。

 カタクリの時期はとうに過ぎていたが、群落はどのようなものだったのだろうか?

 傍らを見れば、カタクリが種子をつけていた。

 ちなみに普通乗用車で来るのは不可能と言って良い。
 途中のカーブがきつすぎる。
 軽トラだったらなんとか来れるかもしれないが、お勧めしない。

          



 

 【解説】
  

さて、先ほどの仲山城の案内看板まで戻り、山道を登る。


 
























 
 ◆北の堀切
しばらくすると、堀切が見えてくる。
この角度だと、たいそうな堀切に見える。

 








 


しかし、実際に堀底に立つと大したことはない。

低い壁側は50cmあろうか、なかろうか・・・・・かなり埋まっている。


しかし、見ていてなんと気持ちの良い堀切だろう。

美しい。





  



そこから、先に進むと主郭下の曲輪である。
加工が甘く、どこまで人工の切岸なのか判断に困る。








 

主郭には東屋がある。
背後には、
岩でゴツゴツしているが土塁がある。

ここに物見でも作ったのだろう。
   

   



 主郭も切岸がはっきりしない。
 正直どこからどこまでが主郭なのかよくわからない。
 看板を見ると、仲山城は十四世紀代の築城と記載がある。
                            




 主郭の南、写真は無いが、もう一本堀切がある。

 
そこそこしっかりした堀切であるが、北側の物より壁の高さは低いように見える。
    
           




    堀切を南に渡ると、明らかに削平された曲輪に出る。
    堀は伴わないが、曲輪の南辺の切岸はきっちり残っている。
 

     ◆南の曲輪内部                                  ◆南の曲輪端・・・低いがちゃんと壁として加工されている
                                                              
   



 その先の尾根は開いてしまって、自然地形の緩い尾根となる。

           




 全体的に遺構が甘い。

 特に西斜面は傾斜が東斜面より緩く、壁がしっかりしていない。
 防御も土塁一本と堀切二本。

 総合的に、きわめて古めかしい城の印象を持つ。

 野上の石塔婆に刻まれた年号も1363年。

 仲山城ゆかりの人物の創建とされることから、この城もこの時期の築城というのは頷ける。

 

 さて、近隣の天神山城、金尾山城との位置関係から、この城が ”後北条戦線として加えられた” という本、情報もある様だが、
 
         実は、この仲山城から金尾城は全く見えない。
 山の懐深すぎるのである。
 つまり、ネットワークとしての連続性が欠けてしまっている。
 

 よって、上記石塔婆の時期も含め、仲山城は、ここ一帯の集落を治めた在地の城と見ている。
 城の古臭さは、それ(ゆえ)だと思うのである。 



 余談ではあるが、仲山城の背後に、堂々と 
「陣見山」 という高い山が控えている。

 遺構は何も無いらしいが2019年管理人は未調査、その名前と立地条件から、後北条戦線のネットワークは、こちらであろう。


 最後に埼玉県の調査した縄張り図(↓)である。
 管理人の調査とほぼ一緒であり、よく書けていると思う。  
      
◆歩いて廻る「比企の中世・再発見」/博物館周辺文化財の複合的活用事業実行委員会
(埼玉県立嵐山史跡の博物館・比企地区各市町村教育委員会)発行
 /平成20年)より引用
                                             

















                                               (完了)

 【既存縄張り図の評価】管理人調査とほぼ一致する。


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