皆野町
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
浦山城 | 千馬山城 | 『金沢城山sk』 |
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う~んっ。。。ダメでしょ、これじゃぁ。 2020/08/11 |
【プロローグ】 金沢城山は『埼玉県の館城跡※1』で正式に城として登録されているものである。 浦山城の南西、標高715mの高地が比定地である。 当地が城であるという伝承は言わずもがな、『長尾景春伝説』 である。 もうこの時点で、”既に死亡している”感 が満載であるが、実地踏査は必要であると考えていた。 巷はコロナ患者が増える一方。 東京近県の我々は、外に出づらくなってしまった。 埼玉県ナンバー引っさげて他県へ遠征でも行こうものなら、顰蹙を買うのは目に見えている。(個人的見解だが・・私が他県の人なら、嫌だなと思う) 仕方がないので近場で過ごそうと、暇を持て余したお盆休みの一時しのぎ。 もちろん遺構なんか無いだろう!という予測も元に、オフシーズンの夏の暑い中、強行突破だ。 秋、冬に向けての体力作りの一環でもある。 ![]() 【結論】 まず、結果から申し上げよう。 思ったとおり、人工的な遺構と断定できるものは無い。 ※1や、ネット情報では、”土塁だ、切岸だ” と騒いでいる物も、全て自然地形と判断。 このような地形は、いくらでもこの稜線上に有ることも確認した(後述) 図は方位磁針も持ち合わせないで描いた管理人のラフ図であるが、 私見では ”ここは城では無い” と申し上げておこう。 ◆下は、土塁と思われる土壇。でも違う。 ◆竪土塁っぽい切岸。でも違う。 ![]() ![]() ![]() ここからの眺めは最高だ。 写真は鬼石方面と思われる。。 ちなみにネット上で、写真のアンテナ施設の小山を 『土塁』 と解釈している方もいらっしゃるが、誤りである。 これはアンテナ建設で作られた土壇に過ぎない。 ![]() 管理人の行動ログ。 ついでに城山の隣の東ピークも上がってみたが、こちらも遺構は皆無であった。 歩いた場所は、全て遺構なし。 【アプローチ】 ここに出かけるモノ好きな方がいらっしゃるかもしれないので、アプローチをお伝えしておこう。 まず、皆野町の ”風早峠” を目指そう。 グーグルアースなどを使えば、すぐ検索できる。 峠までは舗装された作業用林道が導いてくれる。 しかし、林道は所々細く、、交通量も少ない為、あまり整備されていない。 道のあちこちに枝や大きな石が転がっているので、通行には注意が必要だ。 ![]() 風早峠には車1台分は留めるスペースがある。 バイクはまったく問題ない。 ![]() 峠から金沢城山まではしっかりとした登山道が付いている。 古い道標もあるので、かつてはハイキングコースとして整備されていたのかもしれない。 ちなみに ”風早峠まで9.0K” と書いてあるこの道標表示は全くの誤り。 この道標から峠までは、90mくらいしかない。 目と鼻の先。 すぐ着きます、すぐ!。 なんで、こんな大きな間違い看板作ったんだろ? おそらく設置場所を間違えたとしか思えない。 人騒がせである。 ![]() 【付随踏査】 風早峠から南西の奈良尾峠まで、稜線上を歩いてみることにした。 ひょとすると、新しい発見があるかもしれないと思ったのである。 金沢城山にはシッカリした道があるのに、こちらは道があまりはっきりしていない。 ![]() ![]() この稜線を歩いて気づいたのが、金沢城山のような切岸状の地形がたくさんあることだ。 山仕事で、このような形になったのだろうか? とにかく、金沢城山の切岸に見える地形は、城のものでは無いと確信が持てる。 結局、奈良尾峠まで城と思われる遺構は発見できず。 峠からは、舗装林道で風早峠まで戻り、帰途に着いた。 ※1埼玉の館城跡 埼玉教育委員会 国書刊行会 昭和62年 |
【既存縄張り図の評価】 【※1埼玉の館城跡 に無理くりな縄張り図が載っているが、なんとも言い難い。しかも図の方角も間違っている気もする。 |
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第二回 やっぱ、今シーズンも 2019/10/16 |
10月も半ばを過ぎると、ウズウズしてくる。
虫が少なくなり、どうしても城に行きたくなるのは、”私の本能” としか言いようが無い。 ![]() ・・・と、いうことで追跡戦闘車2号(バイク)に跨り、浦山城にやって来た。 バイクは城の直下 「かたくりの里」 に駐車。 全国に被害を及ぼした台風19号の影響のためか、この先は通行止めになっていた。 ![]() |
【解説】 ●主峰の状況 ![]() 主要部に入る手前に、大きな岩があるが、ここからが城域だろうか? 岩の用途としては、虎口の装備に使われていた可能性もある。 ![]() さて、写真右手の道は、このまままっすぐ進むと思いきや・・・・・ ![]() ・・・一度クランクし、主要部へ続く細い尾根に上がるのである。 これも、かつてからの物であろうか? 山には、いくらでもこのような登山道がある。 城の遺構とするには、微妙な感じ。 ![]() ![]() さらに進むと 堀切① が見えてくる。 堀切①は主郭との比高差が明確で、 非常に迫力ある堀切である。 ← ![]() ![]() ![]() ![]() 堀切①を渡ると 主郭 へ向かう綺麗な坂道がある。 かつて主郭には神社が有り、その参道とも考えられるが、 往時のものとして図に描いた。 ![]() ![]() 浦山城のような、近くに小集落を伴う立地の城を、通常 「村の城」 と呼び、有事の村人の逃げ込み場とする説がある。 しかし、この城は狭すぎ。 主郭の平坦面は東西20mほどもない。 浦山城の東側にも集落があるが、管理人には、とてもここの人達全員を収容できるとは思えないのだ。 昔から思っているのだが、村の城論はとても胡散臭い。 ![]() 今度は主郭より、東の尾根に向かおう。 主郭方向に振り返った写真が、左である。 頂上部以外、山の稜線上の加工は極めて甘い事がお分かりであろう。 ![]() ![]() その先の 堀切② である。 主郭側より堀切を望んでいる。 こちらも、堀切①同様、非常に落差を感じる仕立てになっている。 ![]() ![]() 規模は堀切①とほぼ同等である。 神社の参道が無いためか、人があまり歩いてないせいか、 現状②遺構は、①よりシャープな感がある。 ![]() ![]() 堀切②内部から堀切切岸を見上げる。 落差のあるこの切岸では、敵兵も気力が減退してしまうだろう。 小さな城であるが、非常に良く加工されている。 ![]() ●支尾根の状況 ![]() 実は主郭北には、細い尾根が走っている。 この尾根に取り付かれないようにするためか、主郭から竪堀状の溝が落ちている。 崩落の可能性もあるが、縄張り図には一応竪堀?として表現してある。 左写真は、その主郭北の細尾根の状況。 自然崩落の可能性もあるが、東側が切岸となっており、そのまま下方へ続いている。 ![]() ![]() 堀切②を東に超えると、緩い尾根が広がってくる。 つまり堀切②は、尾根が広がる直前の、ちょうどウエスト部分に配置されている。 ![]() さて、この尾根を下ると、木のない藪が広がっている。 ここは2015年、埼玉県が発掘調査を行った場所らしい。 県のツイッターでは、16世紀のかわらけや、近代の遺物も出ているということで、 この城が、戦国時代から使われていた可能性も十分ある。 ![]() 浦山城の存在意義であるが、 武田氏に備えた後北条氏の城と考え、高松城や、金鑚御嶽城との関連を唄う資料も見受けられる。 しかし、浦山城を中心に考えると、両城とも余りにも距離がありすぎる。 致命的なのは、お互いが途中の山塊に阻まれ、狼煙などの有視界情報は全く確認できない。 よって、これらの城との関連付けは無理だろう。 では、何のための城か? 管理人が、この城の主郭の狭隘さが、いわゆる ”村の城” と考えない事は先に述べた。 また先の理由で、後北条氏の繋ぎの城とも考え難い。 近隣の城峰山との関わりを唄う資料もある。 しかし、城峰山、鐘掛山には遺構が全く無い。皆無である。 城峯山に比べ、「城」としての機能は、浦山城のほうが数段上であり、 浦山城が、城峯山と同時代/同一目的のために作られたとは思えない。 なぜ城峯山に遺構がなく、浦山にだけあるかが説明できない。 ・・・とすれば、残るのは一つしかない。 道の管理・監視だ。 浦山城の東の山腹には、山奥にも関わらず、現在も集落が点在する。 もちろん新興住宅地でも無いだろうから、かなり前から人が居住していたと考えられる。 ということは、浦山城のそばには、なにか当時、生活に重要な道路が通じていたと考えるのが穏当ではなかろうか? よく見れば、浦山城から ”風早峠” を抜け西に向かうと、神流川方面に抜けられる。 今ひとつ合点がいかないところもあるが、今のところ管理人にはこれ以外の推論は持ち合わせが無い。 ←◆電子国土より 浦山城と高松城/金鑚御嶽城の関係 (浦山城、コンプリート) |
【既存縄張り図の評価】このような規模の城であるため、まあ皆、似たり寄ったりである。間違えようが無いもんね。 |
第一回 遠い山の中に・・ 2019/05/26 |
![]() こんな季節である。 でも、標高500m級の浦山城であれば、草も虫も少なかろう!と出かけてみた。 ところが、 ぎっちょん である。 めちゃくちゃ暑いし、大量のメマトイが ぶん~ぶん~。 うるさくって仕方ない。 それでも、せっかく来たのだからと、女房と無理くり弁当を食べて、退散した。 _________________________________________________________ 浦山城に登るには、皆野町の ”カタクリの里” を目指そう。 ここには大きなアジサイ園もあり、ネットを覗けば場所はすぐわかる。 ![]() ![]() かなり標高の高い場所であるが、このようなところにも(失礼な言い方ですみません)、ちゃんと集落がある。 集落に近い立地条件から、浦山城のような城を良く ”村の城” と呼ぶ説がある。 有事の際は皆が逃げ込む場所・・・とされているが、浦山城の場合、城域が異常に狭い。 果たして本当にそうなのだろうか????? 正直、私は全く信用していない。 ________________________________________________________ さて、冒頭のカタクリの里から、稜線上を東に進む。 さっそく見えてきたのが、堀切だ。 ![]() 予想に反して、とても大きな堀切であるが、木橋を掛けた跡は見当たらない。 堀を直に登り降りしていたのだろう。 ![]() 我が細君と比較すると、その規模がお分かりになるであろう。 こんな山の中なのに、ナカナカの代物である。 ![]() 堀を渡ると、まっすぐ主郭に向かう道がある。 途中に石碑があり、近代の造作が認められる。 そのため、この道が築城当時からのものなのか、否か?・・・ちと判断が難しい。 主郭に達すると、他にも石碑が建てられている。 信仰の山であったようだ。 ![]() ![]() ◆主郭内部 ![]() 主郭の平場の面積は、5m×7m ほどあろうか? とにかくに狭い。 かつての集落の人が全員逃げ込むには、あまりにも狭すぎる。 どちらかというと、物見程度の施設と思ったほうが合点がいく。 また、主郭の北斜面に竪堀状の溝が走る。 これも、本当に竪堀であったかは疑問である。 なにしろ、急な斜面である。 必要性がわからない。 ◆わかりにくいが、竪堀? ![]() ![]() 主郭から東に向かうと、もう一本堀切がある。 こちらの堀切も立派である。 ここから先には遺構は無い。 堀切が終結点のようだ。 ◆主郭側から堀切を望む ![]() う~ん・・ なかなかの堀切だ。 見ていてなんとも気持ちが良い。。。。 ![]() 堀内部もシッカリ加工している。 ![]() 昨年管理人は、当城の峯続き ”城峰山” の調査を行った。 城郭関連地名バリバリの割りには、遺構は全く無く、残念な結果となった。 ついでに言うと、当城近くの ”金沢城山” にも、遺構は無いらしい。 埼玉県の解説版によると、この一帯は「山全体が城の役割」 ということである。 しかし浦山城は、遺構の無い城峯山山系の中なのに、 間違いなく城と断言できる遺構がある。 そう、 山全体が城としての機能なら、 なんでここだけしっかりした遺構があるのか???? 絶対おかしい・・・・・・ ◆カタクリの里駐車場から付近を望む・・・なにしろ山深い場所だ。 ![]() この地域、まだ未踏査の城の匂いが プンプン するのである。 ![]() (いったんコンプリート。 いつか図面描きます) |
千馬山城 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
!旧図 1993/11/29、12/05 |
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。 今後機会をみて改訂したいと思います。 ![]() 【注意書き】
管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。
大変お恥ずかしい物ばかりである。
読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。
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