埼玉県の中世城郭 

 

熊谷市 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。

東別府城 常安寺城(写真掲載のみ) 野原城(増田氏館)  成沢城(写真掲載のみ) 
 秋元氏(館)(写真掲載のみ)  中条氏(館)(写真掲載のみ)    



野原城sk(増田氏館)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 な!なんだこれ???    2021/12/11

地名からいうと、”野原城”と言うべきだろう。
通称:増田氏館は、文珠寺の境内に当たる。
増田氏は、ここから高見城に居住を移したとされるが、この城域がなにしろデカイ。

朝早くからウロウロしていたため、寺のご住職と奥様に半分職質される形となったが、
事情を説明して、お二人に境内、周辺をを歩く許可を得ることができた。
















まず、文珠寺の周囲を探る。
すると本堂周囲にも堀が残っていることが分かる。










だいぶ破壊されているようであるが、
本堂周りには主郭と呼べるような空間があったのだろうか?
たしかに資料※1にも堀が描かれているが、位置が違う。









さて、本堂から離れ、周囲を観察すると、
境内の境界に長大な塁線が観察できる。

これは北側の堀。
近隣の立正大学に沿って長く延びる。










北側の堀は整備??とまではいかないが
草がある程度刈られており、確認しやすい。















さて、この途中に極めて奇妙な遺構がある。
北側の堀を土橋2本でつなぎ、主郭方向へつなげている。
今までの感覚では中世城郭の遺構とは思えないものだ。









図では、こんな感じである。
なんだろ?
こんなの、いままで見たことない。


わからん。。。。。

とりあえず、中世の遺構として図面には掲載する事にした。














無理くり言うと、馬出しである。
しかし、中世城郭の遺構としてはまったく奇異。
かなり規格化された形をしており、稜堡の砲台のようにも見える。
時代は下って、戦時中に何かを建設したのだろうか?







土橋二本の間の堀である。
東側から撮影。
向こうの土橋が見える。

この遺構についてお話を伺いたいところであるが、
残念ながら周囲に人はおらず、どなたにもお話を聞けなかった
お寺ではお経が始まっていた。
ご住職にお話を伺うこともできない













文珠寺につながる道。
堀が破壊されているようだ。






1943年と1960年の 国土地理院航空写真。
例の馬出しはこの時も存在している。
ここだけ樹木が刈られていることから、やはり、何か後付けの物の様な気がしてならない。
そもそも土塁・堀含め、本当にここは”城跡”なのであろうか??
中世の城にしては、やたらに城域が広い。。。。
馬出し?しかり、謎が多い所だ。
 
※1 埼玉の古城址 有峰書店新社 中田正光 昭和58年
 【既存図面の評価】
 管見の限り、出版物やネット情報の野原城縄張り図はどれもこれも
ダメである。
 上記の馬出し状の遺構?を無視、または正確に描けていない。
 遺構を見ずに書いてしまっているとしか、言い様がない。

 
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秋元氏(館)(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 う〜〜ん 3    2021/09/18

秋元氏館は住宅街のど真ん中のロータリーにあったようだ。
この地に館を築いたというが、1960年代の航空写真をみても、一帯にそれをうかがわせる物は発見できなかった。



当然、現代の遺構も皆無。
石碑のみ立派だ。

要は、
つまらん!

                         (終わり)

中条氏(館)(ちゅうじょうし)(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 う〜〜ん 2    2021/08/25



中条氏の館跡があるというので、買い物ついでに寄ってみた。

城跡は「常光院」である。

常光院の前には現在も堀割が残るが、かつての堀の名残なのであろうか?













常光院の本堂は元禄に建立されたらしいが、
かなり立派な茅葺き寺院である。


















説明版にも、中条氏の館跡に、この寺を建てたと書いてある。















城の遺構が残るのは、寺の背後の藪の中。



背後には池があり、一応散策路が付いているのだが、なにしろこの季節。

蜘蛛はいるわ、蚊はいるわ。。。


確かに何らかの遺構がありそうだが、

撤退することにした。









また、冬にでも来てみるか。。。。(いや、たぶん行かない)


(おわり)


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常安寺城(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 う〜〜    2021/08/11


常安寺城は、旧江南町にある。
常安寺境内が城域とされている。
所謂、無住寺院?なのか、お寺の案内など何もない。
ただ、周囲のお墓だけは綺麗に整備されている。














歴史などは明らかではないそうだが、寺の背後に板碑が残る。





















また、遺構?と言って良いのかどうか微妙だが、土塁のような高まりもある。
しかし、堀は伴わない。
左は、寺の西側の高まり。




寺の本堂を築くため、斜面の土をどかした痕跡のように見えてしまう。










寺背後の高まり。
この先に、先ほどの板碑が残る。
中世の匂いはするものの、城というにはパンチがなさすぎる代物だ。
地籍調査など、城と断定するには慎重を期する感じがする。
 
 











(おわり)


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成沢城(写真掲載のみ)  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 うーっん。。。。    2021/08/11
 

成沢城は、旧江南町の静簡院にある。

















寺の解説版によると、
この地に城が築かれたとされるのが、1525年(大永5年)。
成沢義佑(よしすけ)が築城し、上杉の一門として、甲斐の武田氏に備えたものと言う。















寺の背後に土塁状の高まりが一直線に残る。
しかし、堀を伴っていない。

写真は一直線に延びる土塁状の高まり。
やはり、現遺構では城と断定するにはパンチがない。
ここも地籍調査をちゃんとしてみたい場所だ。













(おわり)


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東別府城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 ひっそりと残る城    2021/05/08
 
【解説】
東別府城は忍城の成田氏の氏族、別府氏によって築かれたと言われている。
近隣の安楽寺には氏の五輪塔、板碑が残されているので、あわせて見学して欲しい。


 

城跡は、東別府神社の境内となっている。
それでは城跡を神社入り口から
南→東→北→西→南の順で、ぐるりと一周してみよう。




まず、神社入口である。
ここはかなり破壊されており、土塁状の高まりに石碑やら何やらが建っている。
資料によれば、この残骸が枡形門の跡?とするものもある。

はっきり言えそうなのは、この付近で南側土塁の軸線が南北にズレている事だ。
・・ということは、ここに土塁線の ”折れ” があったに違いない。
枡形門の跡・・・というのは、ハッキリと明言できないと思う。





(南塁線1)
神社入口に向かって右側の土塁である。
堀は、住宅建設で破壊されている為、浅くなってしまった。

この先端の土塁の中から、土管が顔を出している。






(東塁線)
堀が復活し、高さのある土塁となった。
土塁中央に切れ込みがあるが、小さくて後世の改変では?、と管理人は思っている。

また、写真でもわかるが、土塁の斜面中央に一段平坦部がある。
これを "犬走り” とする物があるが、実は、この平坦部の中央には、コンクリート製の暗渠が走っている。
(左:筆者撮影、 右:なぽのブログ さんから借用させていただいてます )
暗渠は土塁の切れ込みを通り過ぎ、南北に貫く。
暗渠は、先ほどの土管に続いているようだ。
よって、この ”犬走り” を城の遺構のように書いている資料もあるが、管理人は後世の改変だと思っている。


                 




(北塁線1)
北側の土塁に上がった。
土塁は周囲と異なり、若干太くなっているような気がする。
土塁南側の壁がダラっとしている。。







(北塁線2)
土塁と堀はキッチリ東西に真一文字ではなく、斜めに角度をもって延びている。
地形の関係なのだろうか?
どうしてキッチリ方形でないんだろう??

また、国土地理院の地形図では ”水堀” で表現されているが、
今日はカラカラなのか?、どう見ても”空堀”であった。






(北塁線3)
北土塁の西端に一段高いところがある。
矢倉台だろう。








(西塁線1)
北土塁コーナー部を西に回り込んで撮影。
やはり、矢倉台だろう。









(西塁線2)
西土塁の途中には切れ込みがある。
この切れ込みまで誘導する道が今も伸びている。
切れ込みの幅も東土塁とは違い、かなり広い。






(西塁線3)
土塁切れ込み部分。
東土塁とは違い、キッチリ分断しており、通路含め虎口と見て良いと思われる。









(南塁線2)
南の土塁線に戻ってきた。
堀は、写真奥の住宅壁まで続き、その先は破壊されている。
この塁線は、先述の(南塁線1)と一致していない。
これが、神社入口付近で、一度折りがあったと考える理由だ。
勿体ない部分が壊れちゃったなぁ。。。残念。




資料によっては、隣の香林寺も城域で、土塁が残っているという。
しかし、見た限りでは破壊され、今は遺構は無いようだ。
どこか別の場所であろうか?

ただ、東別府神社東の堀の残存状況から見て、城域は神社周りだけでは無い。
それは間違いないだろう。
地籍図などの調査を行えば、もう少し城域がはっきりすると思う。











城跡全体を北側から望む。

近隣にも幾つか別府氏関連の遺跡があるが、ほぼ壊滅している。
市街化が進んだのに、ここ東別府城は、よく残ったと思う。

大切に保存していただきたい。




(PS)
近くの安楽寺にある別部氏の板碑である。
キリークがとても綺麗。
お時間があれば、ご見学を。
 【既存縄張り図の評価】
資料によっては、この城をほぼ真四角の方形居館に描いているものが多い。
しかし、違う。
塁線の流れをもっと良く見て欲しい。
っては、

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