本庄市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
雉岡城sk | 本庄城(写真掲載のみ) |
雉岡城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
本丸の無い、残念な城 2020/08/13 | ||||||||||||
雉岡城は、非常に残念な城と言わざるを得ない。 雉岡城に学校建設(現・児玉高等学校)が始まったのが、明治の頃ということである。 しかし、なぜ起伏ある城跡をわざわざ潰してまで工事をしたのであろうか? 昭和に入ってからも、追い打ちを掛けるように児玉中学校が建設され、主要部は完全に壊滅してしまった。 城と言えば ”本丸” だろうが、今、この城には無い。 文化財保護よりも学校教育が優先された結果と思われるが、雉岡城はその3/4以上を失った。 ネット上では、 『堀、水堀、土塁、馬出が良く残っています・・・』 などと紹介されているが、それは端っこが残っているに過ぎない。 端っこに過ぎないが、これだけの規模なのだ。 大きく太い土塁、馬出、横矢・・・・ さぞかし、昔は立派な城郭であったろう。 児玉町は将来を見据えた都市計画に失敗した。 それもあってか、町はとても閑散として寂しい。 もし城跡が丸々残っていれば、もっと人を呼べる観光資源となったろうに。。。 どうみても、塙保己一だけでは人は呼べていない。 失った遺構は帰ってこない。 それがゆえに、非常に残念としか言いようがない。 |
||||||||||||
【解説】 雉岡城には特定の駐車場は無い。 しかし、公園入口が広場になっているので、そこに車はある程度駐車できる。 ◆雉岡城現地調査図 現況はかなり破壊され、一部が残る。 ピンク部分は破壊された遺構
公園入口を入ると、いきなり広い曲輪に入る。 看板によると、大手門があった郭のようである。(南郭と仮呼称) 曲輪は西から東に緩やかに下る。 本来からなのか、耕作によるものか、工事の関係でこうなったのか、想像がつかない。 曲輪の南から東に巡って、極太の土塁が走る。 写真左手に道路が通っているが、道路までの高さは半端ない。 道路が台地を分断する堀切の堀底となっている。 解説版では、この土塁に大手口が記載されており、 土塁の切れ目から対岸台地と橋で繋がっていたと考える。 土塁を上がりきると城址看板がある。 看板解説にもあるが、この城は後北条氏によって大規模整備されたと考えられる。 その後、徳川が関東に入ってからもしばらく存続したようであるが、 小田原の役の約十年後には廃城になってしまったようだ。 曲輪の呼称は、看板記載内容に従おう。 大手門周りは 『南郭』 と仮呼称させて頂く。
南郭最頂部には馬出が残る。 堀はコンクリで固められてしまったが、角馬出しである。 かつては国学者・塙保己一の記念館があった。(現在は別の場所に移転) __________________________________________ しかし、猛暑のせいか、城跡に人影はほとんど無い。 ひとかただけ、城を見に来ていそうな人がいたが、すぐ帰ってしまった。 あとは、犬の散歩をする人、ウォーキングの人がパラパラ。 みんな、すぐ帰ってしまう。 私は午前10時から調査を始め、結局、午後2時過ぎまで一人で城内をウロチョロしていた。 __________________________________________ 馬出から本丸方向に進むと大きな堀がある。 深い堀であることは想像できよう。 堀の先は水堀となっている。 今度は堀中から望む。 かなりの規模の空堀だ。 この城の壮大さが伝わって来る。 破壊された堀達も、同様の規模だったに違いない。 もったいない・・・ ◆夜泣き石を望む
場所は変わって、本丸である。 本丸と言っても、中学校建設でほとんどが破壊され、この東端の土塁のみとなった。 掲示板の図を見ると、どうも矢倉台だったらしい。 この矢倉台隅部であるが、 土の城ながら、石垣のようなシャープエッジを持っている。 土でも、こんなエッジが作れるとは・・・。 これはスゴイと思った。
城の東側の外堀はそこそこ残っている。 これは大手門のある南郭の円弧を描く東側の堀。 草が生い茂っているのが水堀であり、現在、堀対岸はコンクリート壁を経て全て宅地となっている。 しかし、誰もいないなぁ~
これは、ほうき郭の東側、出隅部分の堀である。 写真の部分で堀幅は15mほど。 広い、でかい!。 このあたりは高校や宅地のため、かなり破壊が進んでいる。 現在出隅のど真ん中に道路が土橋様に走っているが、これは往時の道ではない。。 あくまで、通学路として設置されたものと考える。 ◆出隅北半分 出隅南半分は個人の宅地となっている。 お断りもできず、内部の土塁がどこまで残されているかは未確認。 ◆出隅南部分
実は、高校の周りには、まだかなりの堀が残っているようだ。 しかし、夏場に、この藪の中に飛び込む勇気はなかった。 怪しい格好で調査中の私 公園に訪れる極少の人に挨拶しても、誰も声をかけてくれない・・ しかし、暑い。。 意識が朦朧としてくる。 頻繁に水を飲み、その度に休憩・・・熱中症対策だ。。 その繰り返しで作図を進めた。 蚊取り線香、虫除け、キンカンを駆使し、万全の体制で臨んだ。 おかげで蚊に刺されることはなかったが、その他の虫や特に蜘蛛の巣攻撃には参った。 整備された公園とは言え、草や木、虫は多い。 やはり、夏場の調査はダメってことだな。 でも、あまりに暇なのでこのような行動に出てしまう。 ダメとわかってっても体が動いてしまう。 これも、 ”城への熱中症” か。(うまい!) 一生、治りそうも無い。 (完了) |
||||||||||||
【既存縄張り図の評価】 『埼玉の古城址 中田正光著 有峰書店新社』の ”八幡山城” の項での掲載図以外は、あまり見たことがない。い 壊れちゃってるからね。 皆、あまり興味ないのかな。の |
TOPページへ
本庄城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
なぁーんも無い 2020/06/14 |
【解説】 本庄駅の北、元小山川の河岸段丘上に本庄城はあった。 歴史については解説版のとおり。 本庄氏が後北条と命運を共にし、その後、小笠原氏が入る。 城域は城山稲荷周辺の台地上周辺と言われる。 完全破壊された城は、まったく遺構をとどめていない。 古い航空写真でも、既に破壊されていて、城域はつかめない。 本庄氏がこの城を作るときに献上したというクスの木。 この木だけが、この城の栄枯盛衰を知っているのだろうか? 城山稲荷周辺には、かつての本庄城の切岸(?)が、なんとなく雰囲気を漂わせている しかし、やっぱり破壊されている城は、どーにも つまらん!! (完了) |
【既存縄張り図の評価】 コメント無し |