埼玉県の中世城郭 



 

東松山市 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



 青鳥城sk 高坂城 岩殿城(足利基氏の塁)sk 比企能員(館)  

青鳥城sk(おおとりじょう)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


 まとめ  2022/07~8/15 電子国土へのリンク 中心位置表示にチェックを入れてください
 主郭 南面は沼だった

   ◆主郭部抜き出し
 まずは、主郭部を見ていきたい。
      青鳥城の主郭は、微妙な横矢、そして飛び出したコーナー部が特徴といえる。
いままでの縄張り調査では、これらの微妙なカーブを、かなりの描き手が見落としている・・・
土塁線をみんなストレートに描いてしまっているのだ。
それだけ微妙な横矢だが、写真を見てもらえば明らか。
やっぱり横矢は横矢なのである。
    
   
     主郭北側コーナー2箇所は、飛び出した形状になっている。
これだと、堀の中の敵は、見通しが全く効かない。
焦っている戦闘状態の中、自分がどっちに向かって進んでいるのかもわからなくなり、きっと混乱状態に陥いるだろう。
心理状態を利用した見事な構造である。
特に下図・写真の東張り出し部の堀は、”弓なり”になって、さらに複雑な堀の流れを醸し出している。
関東の城では、私見であるが、類の無い堀である。
  ◆弓なりの堀
 
  
    主郭の南側であるが、開放状態となっている。
土塁線が繋がらず、途中で切れてしまっており、切岸だけとなっている。
どうしてこのような状態なのだろうか?

私見では、過去にここを切り込んだ考察は無い。
後世の改変で、削られて無くなったか?とも思われるが、管理人の見解を述べてみたい。

まずは下段の航空写真である。
   
    上写真は、1947/10/24 の国土地理院・青鳥城周辺航空写真である。
青鳥城の
主郭南面が、一面の ”田んぼ” である事がお分かりになろう
じめじめした土地であるがゆえ、民家が見られない。
    ◆国土地理院 昭和52年
昭和52年の地形図では、青鳥城の南側に大きな池が表現されている。
これは、関越東松山インター建設と、それに続く国道254整備のため、周囲の土地から田んぼが消えた時代のものだ。
その時、自然と水が湧き出して池となったと思われる。


現在、主郭土塁下は池となっている。
ラブホのある二の郭南側は、広い湿地帯になっている。

聞き取りでは、二の郭の堀の中は、かつて水が湧き、カニ獲り遊びができたという。
河岸段丘上であるにも関わらず、「おためヶ池」も存在することから、この話には納得できる。

つまり、ここ一帯は湧水地であり、城の台地下は広い湿地帯であったのだ。
しかも航空写真から、それはかなり広範囲であった事も想像できる。
    以上から、青鳥城の南側一帯は、かつてで覆われていたと考えたい
人が直接歩くことはできず、往来には船が必要だったのだろう。

よって、管理人は、縄張り図の開放された空間は
 
   船着場
の跡と考える。
主郭の南面は、船によって外部と行き来していたのだ。
船を主郭に横付けさせるため、土塁を繋がなかったとすれば、この遺構の意味が分かる。
池であるゆえ、水堀として土塁を開放できた。
防御の必要がなかったのだろう。
     

 二の郭
【注意点】二の郭調査にあたり

広大な二の郭は、私有地であることは、縄張り図でお分かりになると思う。
民家や畑になっている事は、平地城館の常だ。
人の土地に入って調査をするわけだから、所有者からすれば我々は侵入者である。
民家や、畑の場合は、外に出ている人たちに必ず「お断り」をする。
それは、我々縄張り調査をする者の常識だ。

しかし、この城の
イケてない所は、畑、民家以外に、①ラブホ、②養豚場(屠殺場?)となっているところである。
   ①ラブホ問題  ラブホの周りをウロウロすることは、どう見ても不審者。
警察に通報されてもおかしくない。
ホテルに許可を得ることも、ちょっとできない。
これはもう許可も無く黙って、なるべく距離を取りながら調査するしかない。
今回の調査で、ホテルに出入りする男女と目が合ってしまう。
これはこれで、ちょっとお互い小っ恥ずかしい経験だった。
   ②養豚場問題   なにしろ臭い!
並大抵の臭さではない。
だんだん慣れてくるものの、調査しづらい。
切岸を上がると、豚と目があってしまう場所がある。
ヤギにも鳴かれてしまい、これはこれで面食らった経験をした。


◆二の郭東南部

さて、二の郭はパート分けで報告したい。
まず、主郭横の東南部である。
 


まず、主郭との間の堀から。

主郭から二の郭東南部へは、木橋が想定される。
主郭の西面、土塁の切れ間から橋が架かる。
橋の袂には横矢がかかる。
微妙な横矢であるが、堀の流れを見れば一目瞭然。

堀の中には土橋状の遺構がある。
しかしこの上は、現在の道筋にもなっており、後世の改変が強そうだ。
木橋もあるので、遺構だとすれば、「堀留」だったと考えたい。

この堀は、南に傾斜し、最後は池となっている。
池端からは、切岸沿いに低い土塁が斜面を上がる。
その先の養豚場前には、枡形門の跡がある。
養豚場の改変かとも思われるが、この一帯を「大手」という。
一応肯定しておこう。


 

その枡形門前は、広い湿地帯になっており、
水が溜まり、池になっている部分もある。(写真の右手)

このことから、二の郭東南部の切岸下も、水が裾を洗っていたと考えたい。

 ◆二の郭 主郭北部


青鳥城の二の郭は破壊、改変されているところが多い。
しかしながら、よく観察してみると良く残っているし、面白い。
細かな解説をする前に、特徴的なところを列記してみよう。
A  主郭と同様の張り出した矢倉台が上図面の左手に残る
B  土塁の塁線を微妙に曲げた横矢①②④が存在する
C  はっきりとした折を持った横矢③が存在する。コーナー部は矢倉台と思われる。
D  二の郭に入る土橋が存在する。土橋①と土橋②が考えられるが、土橋①は後世の改変の可能性も否めない。他にもあったかもしれない。
E 上図右端の堀端末は水堀(おためヶ池)であった。
ただし、古老の話ではA付近もかつては水が湧いていたとの聞き取りがあり、二の郭の堀は広い範囲で水が張っていた可能性がある。

 二の郭堀西側
   
ラブホ横の二の郭の堀入り口である。
聞き取りによると、
養豚業者の方が綺麗に伐採をしてくれたそうだ
 
養豚場周りの土塁である。
郭内から見てもこの高さがある。
本撮影場所右手に張り出した矢倉台がある
   

横矢①である。
横や部分は周囲より土塁が微妙に高くなっている。
このような横矢が、この塁線上に三箇所ある。
 


 その横矢を堀の中から見る。
普通横矢があると、堀も横矢にそってカーブさせる。
しかし、青鳥城の堀はなんとなく直線的だ。
堀底が狭くなるイメージが横矢②④も共にある。


ところで、
土橋①が往時からのものであれば、土橋①に対しては横矢①②の合横矢となる。
 


古老によると、かつてこの堀は水が流れていたそうである。
この堀でカニを獲って遊んだという話を聞いた。
堀続きの関越自動車道を越えた「おためヶ池」の存在からも、台地上ではあるものの、水が豊富だったようだ。
 二の郭堀中央
横矢③である。
この城で唯一しっかりした「折り」であり、土橋②に対して強力な横矢を掛けており、土橋②は横矢②③の合横矢となる。

折りのコーナー部はこの城の最高部。
少し太めとなっているので、矢倉台だろう。
現地ではこの部分のみ草が刈払われており、写真のとおり見学しやすくなっている。
しかしながら、案内板等の設置もなく、もったいない気がする。

   堀底から横矢③のコーナー部を見上げる。
なかなかの迫力だ。
これを見ては敵も意気消沈したろう。
土の城でも十分な城壁が作れるんだな。
 
土橋②である。
横矢③からの驚異的な狙いを付けられてしまう虎口につながる。
 おためヶ池及び外郭堀??
   
二の郭最北部の”おためヶ池”。
この様な台地上この水量の水堀だ。
水が枯れず、先ほどの古老の
二の郭の堀が全面的に水堀だった
という話は想像に容易い。

なお、上図右の谷を外郭とする論考がいくつかあるが、
これは、自然の谷と見た。
土塁のように見える斜面端の土の高まりは、
耕作で寄せたものだろう
青鳥城は湖面に面した城だった。
水を防御とし、行き来のために船着場を作った。
塁線上には横矢掛かりを多数配置し張り出した矢倉台や枡形門が配置されることから、城主は後北条だったろうというのが通説になっている。
私も賛成である。

 【既存縄張り図の評価】個々の名前は掲げないが、縄張り図においては塁線上の横矢をほぼほぼの方が見落としている。
横矢を意識して作図されているのは本田昇さんくらいだ。
、、、、
  (青鳥城・コンプリート)

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比企能員(よしかず)(館)電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 鎌倉殿の13人     2022/01/09




比企一帯は、『鎌倉殿の13人』で盛り上がっている。
まあ、主人公は北条義時なのであるから、比企能員や比企尼、若狭の局はテレビの中ではチョイ役であろう。
どれだけ画面に登場するかも分からずに、とにかく一帯は盛り上がっているのだ。






さて、鎌倉で殺されてしまう比企能員の館跡が、東松山市に残るということでやってきた。








場所は森林公園の西、『宗吾じ』である。
立派な山門と立派な本堂のある歴史深そうなお寺である。
山門横にちょっとした切岸があるが、もちろん城の遺構とは思えない。

 
敷地内をくまなく歩いてみたものの、中世の城を思わせるものはなにひとつなかった。
比企能員館は、単なる伝承に過ぎないのだろうか・・・・???
  




さて、この寺には、2代将軍・源頼家の位牌があるそうだ。
比企能員の娘であり、頼家の側室 若狭の局がこの地に持ち帰ったという。

若狭の局は、頼家とともに鎌倉で死んだとされている。
この宗悟寺に位牌を持ってきたのが若狭の局だとしたら・・・・一体彼女は????


ちょっと薄気味悪いというか、ロマンというか・・・・・・
歴史なんて、こんなもんでいい。



高坂城  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください


 大土塁!     2021/04/01
【解説】

 今日は平日であるが、歯医者で半休を頂いた。
 歯医者までの時間がもったいないので、高坂城にやってきた。

 高坂駅東、高済寺敷地が ”高坂館” とも呼ばれる高坂城である。
 江戸期に加賀爪氏が陣屋を構えたことから、”高坂陣屋” とも呼ばれ、現在の遺構はその時のものであろうか。
 巨大な土塁と、巨大な堀が寺敷地内に残るが、その他は地域開発のため破壊されている。
 高済寺境内以外では、近隣の 「桜沢公園」 内に堀の一部が残るのと、七清水せせらぎ公園に沿って、往時の切岸が残るのみとなっている。。
 
高済寺の境内西側に残る巨大土塁。
それに沿う堀は一部埋められてしまったが、
それでもなかなかのものである。









土塁の最高地点には歴代加賀爪氏の墓が並ぶ。












主郭の切岸である。
もともとは都幾川が麓を洗っていたと思われる。










その都幾川の土手が、高坂城に接続している。










現地にある発掘結果。
宅地開発をする前に、随分徹底的に行われたようだ。
トレンチは建設される道路に沿って行われている。

青線が堀跡であり、最南側の堀は、後述するさくら坂公園内に一部残されている。



























主郭部分と通りを隔てた公園内に残る堀。
今は途中で消えてしまうが、
発掘調査結果では、高済寺まで繋がっていたことになっている。






さくら坂公園周辺の発掘結果。
弥生~江戸の遺跡、異物が発見されているが、
図の中央、赤い線が上写真の堀である。















高坂城の切岸は、
都幾川の支流、七清水せせらぎに沿っている。
おそらく本流都幾川で形成された河岸段丘であろう。
ここから見る風景は、本当に城跡らしい。




かなり破壊されていることは否めないが、高済寺の土塁は一見の価値がある。
見学には図面を描いても2時間ほどで完了する。
是非ご覧いただきたい

       
 【既存縄張り図の評価】だいたい皆さん同じような感じで描けてます。

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岩殿城sk(足利基氏の塁  電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

 結構立派!     2019/12/14
 
 

 新編武蔵野風土記稿では、かつて鎌倉公方足利基氏が、岩殿山の合戦(この地と考えられる)で陣を張ったという。
 この城の名は、これにちなんだ物と思われるが、果たして時代がマッチするのかはクエスチョンである。

 実は城の入り口が非常にわかりづらい。
 近隣の弁天沼に向かう道の途中に 『足利基氏の塁』 の標柱が立っているものの、見過ごしやすいので注意しよう。

 標柱から先は藪と言って良い。
 道はあるようで無いので、覚悟するように。
 
        
 

 


    


 【解説】
 
 


藪に入るとすぐ右手に池がある。
この池はおそらく堀を潰し、灌漑用に近代に作られたと考える。
 












 池を超えると、斜面を登る土塁に出る。
 土塁は、北に大きな堀を伴っている。
 斜めの土塁を登り詰めると、頂点に土橋がある。

 この土橋の先はゴルフ場になっていて、プレイヤーの人と目が合うくらいの近さまで迫っている。
 プレイ中の人に、 ”なんだこいつ?” という感じで睨まれるが、無視しよう。 
 城跡の方が、ゴルフ場より先にあったのだから。。。。

 よく見ると、城の中にゴルフボールが落ちている。
 と、いう事は頭に当たる可能性もある。
 おっと!、、、、これは、命懸けの城跡見学となってしまった。




 





土橋から西に堀を超えると、主郭部分である。
後でわかったことだが、 「主郭」 ではなく、ここは 「主郭の土塁」 と言った方が良い。










   


 
 堀を超え、主郭の土塁に立つと、コーナーとなっている。
 矢倉台、橋脚台の可能性がある。
 
 この主郭の土塁を西に進む。
 結構長い土塁で、東西90mほどある。
 こんなに大きい城域と思っていなかったので、その規模に驚きを隠せない。
 
 土塁には常に北側に堀が伴い、ゴルフ場との高低差でばらつきがあるが、かなり深い。
 ゴルフ場側が高いため、その距離を稼ぐために施した結果だろうか。

 土塁は西のドン付きで南にクランクする。
 クランク地点は、土塁が三角地帯となり、ここにも矢倉が組まれた可能性がある。
 



 
 
 その先、土塁・堀は南に斜面を下るが、途中で破壊を受けている。
 しかし、土塁線は残存した切岸でたどることができる。
 麓の平坦地を走る道路まで続いていたようだ。
 



 いままで紹介した主郭土塁の内郭側は全て緩い斜面だ。
構築物を建てられないこともなかろうが、適切ではない。
この斜面はのべたんで50m南北に続き、麓の平地に接触している。
よって、管理人はこの土塁を含む斜面全体が、城を囲む北側の大土塁と判断した。
 
 
 
 
  
 人は麓の平坦地に居住し、有事の際のみ土塁際まで兵士が詰めたと考える。
 また、この大土塁、堀のつながりから、この城は大きな2郭構造だったと考える。
 今は消えてしまったが、それぞれの塁線は斜面を南に下った後、
 そのまま平坦地を横切り、九十九川まで繋がっていたと考える。
 城内への虎口としては、ゴルフ場側の土橋。
 今は消失しているが平坦地に虎口があったのだろう。
 ゴルフ場側の土橋からは、土塁上に橋がかけられ、主郭につながっていた可能性もある。
 (←左図)

 城はおそらくゴルフ場建設時、遺跡の所在から破壊を免れたと思われる。
 それは嬉しいのだが、なにしろゴルフ場とギリギリの線で所在しているため、
 見学はあまり気持ちの良いものでない。
 
 





 それよりも再度申し上げるが、城内にはたくさんのゴルフボールが転がっている。
 古ボールを集めれば、売れるほどありそうだ。
 つまりは城内に打ち込まれているのだ。
 ゴルフのコースは、城内方向にどう見ても打ち込むようになっていないが、下手くそプレーヤーが飛ばしてくるのであろう。
 城見学はヘルメットをかぶるなど、くれぐれも用心した方が良いかもしれない。
 ちなみに栃木県では西方城の東郭下がこのような状況であり、筆者はかなり怖い思いをした経験がある。

  
左◆現地案内板
   古くなって、あまり良く見えない

下◆近隣の阿弥陀堂板碑
   胎蔵界大日如来の梵字が刻まれている

        

 【既存縄張り図の評価】まあ、管理人と似たようなものである。ただ、土塁内側が直ぐ平坦面のように見える図がいくつか見受けられる。 


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