飯能市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
大河原城sk | 『物見台跡』 | 龍谷山城(原市場) |
龍谷山城(原市場) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
今シーズン最後。いいんだけどねぇ・・・なんとなく不満足 2022/5/2 |
【解説】 ■登城路と駐車場 ![]() ![]() ここに車(バイク)は置かせていただこう。 。 ![]() 一部のネットに、この橋を渡ると、城にかなり近くアプローチできるという情報があったが、 真っ赤な嘘である。 道は沢を渡った瞬間、なくなっている。 ![]() 実は先ほどの木橋から車道を下ると、左写真の標識がある。 しかし・・・・・・ ![]() 標識の先は重機で崩され、荒れ放題。 結局、正規の道はよくわからない。 ![]() きれいな山道が現れる。 ____________________ ■遺構 ![]() ![]() 城に近づくと現れる堀切1。 ![]() ![]() その堀切1を上方から望む。 ![]() ![]() 登城道は、枡形虎口に誘導される。 そこから先は、堀切2を通り、横矢の効いた矢倉台と東郭の土塁に挟まれながら主郭に入る。 この虎口は、東郭土塁上からの木橋の可能性もある。 ちなみに、西郭から主郭へ入る虎口は、南側の主郭側面からだと考えられる。 ![]() ![]() ![]() 主郭の写真である。 小さな祠がある。 ![]() ![]() 竪堀3である。 主郭西側の虎口を守り、通路を狭める効果を生む。 当城の歴史は不詳である。 解説した遺構は、技巧的なのだが、残存状況が甘い。 そのような理由から、なんとなくシーズン最後にしては不満足な気持ちになった調査だった。 ______________________________ ■蛇足 ![]() 本コラムの写真が少ないのは、そのためだ。 図面描きメインで下山となった。 ![]() あと、今回、とうとうスパッツが真っ二つ。 来シーズンは新しいものを買おう。 (2022前期調査・おわり) |
【⠀既存図面の評価】 ちょっとねーっ、ていう図面がなんと多いことか! |
『物見台跡』sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
なんともまぁ・・・ 2021/09/12 | ||
飯能市にある伊豆ヶ岳(標高850m)の東に、”バラガ平尾根” または ”東尾根” と呼ばれる登山道がある。 山頂近くの急な岩場や、途中で道が薄くなったり、尾根を見失いやすい所があって、登山地図ではあまり推奨されていないようである。 しかし、このバラガ尾根上に ![]() ![]() ■山と高原地図22 奥武蔵・秩父 2021年昭文社 どうしてそのような名称を記載できたのか? 理由は明確でないが、登山地図に掲載されているということは、それなりの根拠と調査の上での物と思われる。 登山者のネット記録を探ってみると、当地に ”掘割りが残り、土器なども出土した・・・” との情報もあった。 ![]() 本来であれば 『情報調査』 のコラムに載せるべき代物なのかもしれないが、登山地図情報を尊重し、本編掲載を判断した。 城であるかどうかは、読者の皆様に委ねるとしよう。 |
||
話が長くなるので、まず筆者の見解を最初に述べておこう。
|
||
![]() 管理人は、東麓の琴平神社からバラガ平尾根に取り付き、当地へ向かった ■琴平神社 ![]() 左図は国土地理院の地形図であるが 『物見台跡』は、標高542mピークの下方、標高520m付近の緩やかな尾根の先端となる。 ■スマホアプリ YAMAPでの筆者の登山ログである。 ![]() ![]() ![]() さて、物見台跡に到着。 登山口からちょうど比高300mほど。 現地には、ちょっと丸みを帯びた平坦地が目に入る。 左の肩が緩く斜めになっている。 そこで、左に目を移すと・・・・ ![]() ![]() ・・・確かに土塁(切岸)がある。 この土塁に沿って、うっすら溝が走ってる。(下写真緑色部分) これを一部のネット情報では ”掘割” と称しているが、当方の見立てではあまりにも貧素な感じを受ける。 ![]() ![]() ![]() 別の角度から堀?を見る。 真ん中の窪地が堀?ということになるが、単なる道の跡にも見える。 そもそも、主郭に該当するのは写真の左手になる。 その左手の堀の法面が、全くはっきりしていないのだ。 埋もれた?とも考え難い。 ![]() ![]() この堀?は写真奥で竪堀のようになって消滅する。 道の跡だとしたら、こんな風になるだろうか? すぐそばに尾根があるので、道を急斜面につなげるのはおかしい。 やはり、堀なのか????? ![]() ![]() 土塁?の外側(南方向)には、帯状の狭い平地が残る。 左写真は、そこから土塁方向を見たところ。 こちら側は、人の手が加えられず、自然地形に見えなくもない。 ![]() ![]() また、ここから北側の542m峰に続く方向にも明らかな切岸が残る。(左写真) やはり片側削られているだけで、土塁と言えるものではない。 切岸、段と言ったほうがふさわしい。 結局、前述の土塁?も合わせ、 片面のみ削られた段が、平坦部の西から南面を囲んでいると言う形になる。 登山道とも考えられるが、こんな平坦地に切岸が自然に出来るだろうか? あと考えられるのは、近代の林業の作業痕だが、これが一番可能性が高いような気もする。 結局、城にしては、この場所を守ろうと言う意識が感じられない。 というのが、管理人感想である。 登山地図屋さんに ”物見台跡と記述た理由” を聞きたいものだ。 ![]() ただし、注意しなければならない点がある。..... ![]() 現在は木々で囲まれ視界が効かないが、木が無ければ、物見台跡からは本陣山方向がよく見えるのだ。 本陣山の袂には本陣山砦という城が確認されている。 さらに本陣山砦ー吉田山城ーりゅうがい城と、狼煙を上げ、お互いを確かめ合うように城が並んでいる。 この物見台跡の位置は、その延長線上にあるようにも見えるのである。 この周辺の道が秩父までの往還になっていて、その監視のために城間の狼煙連絡がされていた。 だから、ここが物見台跡であった・・・・という考えは、一応納得できるのである。 また、縄張り図を見てもらうとわかるが、この物見台跡の南西尾根を下ると、『トノ入ヤツ』という谷間につながる。 これは 『殿入谷津』 と考えられ、城をイメージさせる地名だ。 ここが ”お殿様が住んだ谷津” と考えると、なんとなく物見台跡の意味もわかるような気がするのである。 筆者の考えすぎであろうか。。。???。 (おわり) |
||
【既存縄張り図の評価】 既存図は無い 城と判断できるならば、埼玉県に新城の誕生だ。 ただし、城とするにはパンチが無さ過ぎる |
||
■番外編 この物見台跡からバラガ尾根を西に向かう。 今を去ること45年前、わたしは伊豆ヶ岳に登った記憶があるからだ。 物見台跡からしばらく登ると、山は杉林から広葉樹に変わり始めた。 ![]() 標高700mほどでは、ほとんど広葉樹になった。 ![]() こんな山の中に、綺麗な花が咲いていたので、なんだろ?と思って調べてみたら、 有害植物トリカブトだった。。。。。怖っつ。 あまり手で触ると良くないらしい。 触ったけど。。。 ![]() ![]() 伊豆ヶ岳に着いた。 45年ぶりの再訪。 懐かしい。。。 でも・・・・・・ ![]() コロナ禍のせいか、山頂には人がいっぱい! あちこちに人、人、人! 密だ、密! こんなところで、密だ。 昼飯をここで食べる予定だったが、ゆっくり座れる場所もない。 しかもガスに囲まれ、展望もゼロ。 感染しそうなので、早々に退散を決定。 ![]() 帰りは、別の道を選んで登山口の琴平神社に向かう。 ![]() こちらは谷間のルートで、水も豊富。 ![]() ![]() 最後は林道を辿るが、この林道がまったくの荒れ放題。 左写真は、道路の真ん中がえぐられ、 側面のコンクリートしか残っていない。 ![]() ようやく、追跡先頭車3号(スーパーカブ)を置いた登山口に到着した。 ![]() 今日の管理人のログ。 比高600m 結構歩いたが、体のダメージは熊倉山にくらべ少なそうだ。 ■YAMAP ログ (YAMAPは、この頃無料で使える機能が極端に減った) バイク置き場下の沢で、遅い昼食。 川のせせらぎが心をなごませる。 でも、横に道路があるので車やバイクが通り、ちょっと煩い。 やっぱ、埼玉は人が多い・・・イコール栃木に帰りたい。 ![]() ![]() (おわり) |
TOPページへ
大河原城sk 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
ハイキングコース沿いの城 2020/10/31 |
![]() ![]() ![]() この城を目指すには、飯能市・八耳堂を目指せば良い。 昔は敷地内に車が置けたらしいが、今は駐車禁止になっている!(注意) お堂前に路駐か、道路を挟んだ向かいの民家がボッタくりで300円で駐車させてくれるらしい。(せこっ!) 管理人はバイクなので、知らん顔して敷地内に駐車。 誰にも文句は言われなかった。 管理人は ![]() 八耳堂からは『龍崖山』の看板に従う。 城跡までは、ハイキングコースが整備されており、全く迷うことはない。 |
【解説】 ●伝・殿屋敷 ![]() ![]() 主郭への登城途中、伝・「殿屋敷」(別名で三四朗平) を経由する。 結構な広さの平場であり、通説では居館跡とする。 ![]() ![]() 他の資料では、左写真の右壁面を土塁とするが、 切岸は片側だけである。 反対側は、どう見ても自然地形。 よって写真は、片面の「切岸」にしか思えない。 さらに言うと、これは中世からの物ではなく、 近代の ”椎茸畑” 等の開墾跡にも見える。 何かの集積場所では?とも思える。 とにかく、城の遺跡とするには注意要だ。 基本、管理人は今までの埼玉県の城の解釈については、”だいたい否定から入る” つもりである。 ![]() ![]() さて、この平場にはベンチやら登山スティックの貸出まである。 非常に整備された親切なハイキングコースだ。 それゆえ、訪れる人も多い。 |
●主郭/南の尾根![]() 山頂=主郭である。 すこぶる眺めがよい。 新宿副都心、スカイツリーまでよく見える。 眺めはいいのだが、気になるのがこの伐採。 眺めをよくするために木々を切り倒しているということは・・・ イコール ”斜面は倒木&激藪” になっているということだ。 ![]() ![]() まず、主郭から南に向かう。 堀切だ! しかも深い。 対岸から橋はかけられそうもない。 高低差が非常にある。 写真はわかりにくいが、堀切を隔て主郭を見たところ。 ![]() 堀間は、どのように往来していたのだろうか?? 現在のハイキングコースとは思えない。 この堀切以南には遺構は無いので、 ここは”遮断の堀”で、人の往来はさせていなかったとみた。 ![]() ![]() 堀の両端は竪堀になっている。 よく分からいと思うが、 写真は堀切東端が竪堀に変化するところ。 右手が主郭になる。 |
●西の尾根
![]() ![]() 場面は変わって西尾根の遮断。 土橋があったのか、遺構は薄く、浅い溝が確認できる。 主郭側の壁は割とはっきりしている。 |
●北の尾根 次に、北の尾根の堀切調査。 先述したが、この城は頂上からの眺望をよくするために、主郭周りの木を伐採している。 これが災いして頂上周辺は驚異の激藪。 北の尾根は、まさにこの状態なのである。 ![]() ![]() 地形図でもわかるが、 北の尾根の派生場所は頂上より少し下った場所になる。 ◆写真は北の堀切東側 激藪を下り、どうにか堀切に達することができた。 西尾根の堀切よりマシだが、ここもかなり埋もれている。 ![]() 現地だとわかるのだが、写真だとねぇ・・・・ ◆左写真は北の堀切中央部 ![]() ![]() こちらのほうが分かりやすいかな? ◆写真は北の堀切西部 |
●東の尾根 東の尾根はハイキングコースとなっている。 伐採のおかげで発生した激藪地帯で、コース外の藪中に入ってみても、曲輪とおぼしきものは無い。 堀切も無い。 おそらく、当時から城下と連絡するために使われていたルートで、敢えて遮断物を作らなかったと思われる。 ![]() しかし、現地の看板を見ると 【竪堀群】 なる文字が見えるではないか! 畝堀か??ということで早速調査。 ところが、激藪内を調査してみると、あれあれ??という印象になる。 確かに竪堀状の引っかき傷はあるが、 堀は短いし、溝の全面に平場(前庭部)のようなスペースもある。 しかも、看板の図面以外にもアチコチある。 管理人は過去の経験で気づいた。 これは”窯または鉱物採掘跡”跡である。 要は竪堀群は誤りである。 これらは中世まで遡るかは管理人は判断できないが、 少なくとも城を守るための遺構ではない。 こうなると、先の殿屋敷は、やはり、これら産物の集結場所に思えてくる。 ![]() ◆山中に点在する窯、採掘の跡 ![]() ![]() ![]() |
大河原城の歴史は不明。 大河原氏の居城とも言われているが、この大河原氏の城と言われるのは、坂戸市、東秩父にもある。 一族郎党であろうか。 |
】【既存縄張り図の評価】 現地解説版の縄張り図は ”竪堀群” と記載してあることで、失格!ですね。 |