深谷市
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
庁鼻和城(写真掲載のみ) | 深谷城写真掲載のみ | 曲田城(写真掲載のみ) | 伊勢方城(写真掲載のみ) | 本田城sk(本田氏館) |
本田城sk(本田氏館) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
埼玉の城は私有地に多い 2021/12/19 |
【解説】 埼玉に来て3年半。 この頃、埼玉に心震える城が無くなってきた。 でも、城には行きたい。。。 仕方がないので、近隣の平地城館を訪ねてお茶を濁す事に・・・。 でも困った問題が起きている。 埼玉の城館は、民家や、寺社の私有地になっていることが、なんと多いことか。 勝手に入るわけにも行かない。 だから仕方なく、見学許可を得るのだが、それがとても面倒で、苦痛なのだ。 持ち前の人付き合いの悪さも加わり、毎回心が折れる。 今回も城域は完全、末裔の本田さんのお宅。 朝っぱらから本田さん宅の呼び鈴を押してしまった。 奥さんが対応してくれて事無きを得た。 が、こんな朝の忙しい時間から、訳も分からない輩の対応をして頂くのは、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいである。 ありがたく見学させていただくが、このように気を使う城見学は好きじゃない。 |
【解説】![]() ![]() この城は畠山重忠の家臣、本田氏が作ったとされる。 ![]() 末裔と言われる、本田氏宅の背後の山が城跡である。 現在は山林に土塁、空堀が残るが、残存状態はイマイチである。 ![]() ![]() 本田氏宅の背後の森に入るとすぐ見えてくるのが、東側の堀。 切岸は微妙だが、堀だというのはハッキリわかる。 ![]() ![]() 東の堀はクランクし、北に回り込む。 するとと、さらに切岸が微妙な感じになる。 堀とはわかるが、甘い。 ![]() ![]() その先で再び堀はクランクする。 西側に南北に堀が走るようになる。 堀は北から南に緩く下っている。 ところで、主郭の内縁辺部に土塁を描く図面がある。※1 しかし、城域が北から南にゆっくりと傾斜しているので、 視覚的に縁辺部が土塁のように見えてしまうかもしれない。 東辺、西辺も土塁があったような、無かったような・・・微妙である。 ![]() ![]() そんな中、西辺の中央部に土塁状の高まり(以降、土壇)が有る。 これを古墳と推定する情報もあり、周囲を堀としている。 ![]() ![]() しかし、管理人にはどうにも納得がいかない。 古墳にしては形がイビツであり、何より戦略上あまり役に立ちそうも無い。 そう、主郭内部より高いのである。 しかも、なんでここだけ?と考えると、 「城として」の土壇の意味が分からない。 なにより昭和58年の資料※1の縄張り図には、 この土壇が描かれていない。 よく観察すると、城域の西側は竹林となっている。 竹林のため、後世に土を寄せた跡なのでは?と考えている。 城の遺構では無いだろう。 ![]() ![]() 東、西の南北に走る塁線は、斜面が終わり、平野部となったところで消滅している。 よって現在民家が建つ所には遺構が無い。 宅地や畑のために改変されたとも考える。 遺構としては東松山市の岩殿城のような感じを受ける。 ![]() 城の中ほどに城址碑があった。 碑には「本田次郎近常遺跡地」と書かれている。 ※1 埼玉の古城址 有峰書店新社 中田正光 昭和58年 |
【既存縄張り図の評価⠀】資料※1では主郭内外に土塁が描かれているが、描き過ぎではないかと考える。 また、西側の土壇(古墳?とするものもある)は、城の遺構ではないと思う。 |
曲田城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
つまらん! ( ̄▽ ̄) 2021/09/26 |
【解説】 ![]() 曲田城は現・皎心寺にあったとされる。 山内上杉氏の分家、深谷上杉氏の家臣岡谷氏の居城というが、遺構はまったくの皆無。 城跡の雰囲気も何もない。 1947年の航空写真をみても、その痕跡を追うことができない。 つまんないの一言。 ![]() (おわり) |
伊勢方城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
つまらん! ( ̄▽ ̄) 2021/09/26 |
【解説】 ![]() 深谷上杉氏が深谷城を築くまでの間、仮の宿としてこの城を作ったと言う。 現在は八幡社となっているが、遺構は無い。 同様に航空写真でも遺構は追えない。 やっぱり、つまらないの一言。 (おわり) |
深谷城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
う~ん ( ̄▽ ̄;) 2021/05/02 |
【解説】 深谷城は現・深谷城址公園にあったとされる。 ただ、ここは近世城郭を匂わせる造りの公園で、管理人はあまり好きではない(というか嫌い!)。 ![]() その城址公園の傍らに、富士浅間神社がある。 ![]() 神社の周りは周りより少しだけ小高い。 ![]() ここは深谷城の外堀跡と伝わるようだ。 ![]() それが、これ。 堀は水遊び場?池?になっており、全面コンクリートで固められている。 ![]() 周囲より少々低くなっている。 これが堀跡と言ってるのだろう。 しかし、この遺構から深谷城を思い浮かべられる人は、ほとんど居ないだろう。 堀だとしたら、かなり埋まっている事になる。 さて、この場所以外、深谷城を今に伝える場所は無い。。 発掘調査報告では、別の場所で障子堀も確認されているのに・・・・・ もう少し残っていればなぁ。。。。と思う残念な城である。 (おわり) |
【既存縄張り図の評価】評価しようにもなんともはや・・・・・・・ |
庁鼻和城(写真掲載のみ) 電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください
う~ん ( ̄▽ ̄;) 2018/10/27 |
【解説】 ![]() 庁鼻和城は深谷市 国済寺にある。 本堂の裏側に遺構があるというので出掛けてみた。 立派な山門をくぐると・・・・・・・ ![]() 立派な案内板がある。 庁鼻和には十四世紀、庁鼻和上杉氏が領していた。 境内には歴代の墓石があるという。 _________________________________________________________ 本堂の裏に回り込むと、 確かに土塁の残欠が、申し訳程度にある。 しかし、残念なことに立ち入り禁止。 よく見ると半分以上埋められた堀の残欠もあるが、寂しい限りである。 ![]() ![]() ________________________________________________________ ![]() そのそばには上杉歴代の墓がある。 上杉憲英の宝筐印塔である。 その他累代は、その側面に並んでいるのだが・・・・ え、あっれ? 五輪塔と宝筐印塔のごった煮状態。 これ、ちょっとひどいね。 ![]() (おわり) |
【既存縄張り図の評価】 評価できる図面は今のところ無いというより、遺構が乏し過ぎる。。 |