埼玉県の中世城郭 



 

富士見市 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



難波田城(写真掲載のみ)


難波田城
(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク※中心位置表示にチェックを入れてください

  こんなだったっけっ??     2019/4/19
 
 【プロローグ】
 
 

 管理人は当地を訪れたことがある。

 たしか日本城郭資料館(西ヶ谷恭弘氏主宰)の見学会だったと記憶している。

 東上線鶴瀬駅に集合し、見たこともないおじさん、おばさんたちと、暑い中、城まで歩いた。

 当時、中学生くらいだった私は、城の知識も少なかった。

      「ここが難波田城だよ!」

 と言われた場所は、私には、ただの田んぼと宅地にしか見えなかった。

 中世の城というものが、どんなものか認知できていなかったからだ。

 ただなんとなく”難波田氏館址”の石碑を見て、 “あー、やっぱここは城なんだなぁ”  と写真を撮って満足していたように思える。

 

 

 

 

 

 時を超え、久しぶりに訪れた難波田城は、変貌していた。

 発掘調査に基づき、堀、土塁、水堀、城門が再現されているという。

 全く別の場所に来た感覚だ。

 資料館ができ、ビオトープができ、古民家まで移設してきたようだ。

 昔の記憶を取り戻せるものなど、一かけらも無さそうだ。

 かつての田園風景を蘇らせるものも無い。

 所謂、 “復元” という名目でこのようになってしまったようである。

 

     
   


 ちょっと残念な気持ちで歩いていると、石碑が目に飛び込んできた

              「あら?!俺、これ、なんか見たことある
 
 と、直感的に思ったのである。

 頭の中のいくつもない引き出しの中から、出てきた答えがこの感覚である。

     

 
 家に帰って古いアルバムを引っ張り出した。
 昭和51年と書いてある。

 

        それが、下の写真である。

        昔のままだ・・・・何も変わっていない。

 45年前、確かに私はここに来たのだ!

 古い写真でも石碑の背後に家屋が見える。

                     

 
 


 

さらに、家の中を探すと、自作の資料が出てきた。
当時の現地記録だ。

実は難波田城の主郭は、この家屋のあたりであった。

石碑は主郭に建てられていたのである。










 


 難波田城は、難波田氏の輪郭式の平城であった。

 主郭を中心に、馬出や横矢の掛かる城で、後北条氏と運命を共にしたようである。



          


 



      ________________________________________________________


 
 実は他にも、つたない現地調査図が残っていた。
 おそらく難波田城と一緒に見学したと思うのだが、今は多門氏(おかど)館と呼ばれるところのようである。
 ヤブの写真(空堀か?)と近くの神社の写真が残っていた。
 


      

                                         (完了)

【既存縄張り図の評価】 評価できる縄張り図と言えるものはない


TOPページへ