埼玉県の中世城郭 



 

秩父市 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
 この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
 (注)遺構が無いからと言って、そこが城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。



長者屋敷城  三峰神社城? 城峯山?/鐘掛山?sk 諏訪城 熊倉城  竜ヶ谷城(久長)  


長者屋敷城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

ハイキングコースにひっそりと  2020/10/02
 
体重が78kgを超えた!
これはやばい!
管理人は体重が80kg近くになると、背中に激痛が走るようになる。
夏がいけないのだ、夏が!
夏が私を太らせたのだ。
城に行けないので、酒を飲んで、大した運動もしなかった。
だから太った!
これは、
マジでやばい。
いまのままじゃ、太るばかりだ。
気づけば、お腹が随分出てしまっている。

 ____________________________

今日は秋晴れの予想。
会社なんて行っている場合じゃない。
運動だ!
有休をとって山に出かけよう。
どうせ山へ行くなら、城があったほうが良いに決まっている。

 じゃあ、どこに行こうか????


候補は3つ。
熊倉山・・・・登り2時間30分(標高1500m、比高800mでかなりキツイ。城郭候補地だが、多分城はない)
室山城・・・・登り1時間(山頂に室山城)
長者屋敷城・・・登り1時間(山道はハイキングコースとなっており、①②よりは(らく)そう

どれにしよう????

結局次の日のスケジュールも鑑み、選んだのは


 ____________________________

さっそく管理人はバイク(追跡戦闘車3ゴウ)にまたがり、秩父第二七番札所 『大渕寺』 に向かった。


 
【行程】


長者屋敷城へのアプローチは色々あるが、
管理人は体力作りも兼ねて、第二七番札所 『大渕寺』 から
通称 『琴平ハイキンクコース』 で向かうことにした。




朝8:00
お寺はひっそりとしている。











ハイキングコースは、一番高所の、このお堂の裏から伸びており、
さっそく山登りスタート!






















コースの途中、このような橋がある。

 「堀切か!!」

とも思ったが、城からは程遠く、切通しの跡と判断した。















そのまま歩くと、
第二六番札所 『岩井堂』 に到着















岩井堂は懸造りである。
巨岩の懐に抱かれた姿は、とても珍しい。
高欄からの眺めは林ばっかりで見通しが効かない。
おそらく、昔はもっと木々が低く、眺めが良かったのだと思う。
方向からすると武甲山方面ではない。
三峰山方面であろうか??

 



さらに進むと、修験堂から巨岩を階段で下る場所に出る。

このハイキングコースは岩が多い。
かつては修験の場であったと言う分、非常にスリリングである。
ハイキングコースは変化に富み、人気があるのが良く分かる。












 
【解説】
    

 


大渕寺から約1時間。
主郭の東屋が見えてきた。








東屋正面に長者屋敷の碑がある。
この碑が建つ場所は土塁となっている。








この石碑の北に、堀切がある。















堀切は岩盤を利用、または削ったもので、
主郭側の現在の深さは2~2.5mほど。

堀切からの竪堀は、しっかりしていない。
東側はそこそこの規模であったような気もするが、かなり埋もれている。








左写真は同堀切を、堀切内の通路から撮ったもの。

この通路が往時からの物とすれば、
堀の深さは現在とあまり変わらないことになる。








主郭の北には、二の郭、三の郭、四の郭がある。
写真は三の郭から二の郭を望んだもの。
シッカリした切岸である。












三の郭と四の郭の間にも堀切がある。
しかし、規模は主郭のものより若干小さい。
主郭同様、堀切内に通路がある。


左写真はこの堀切西側の竪堀である。
左手はその下を通る登城路。

堀切や竪堀は共に、かなり埋もれているようだ。






さて、この城の一番の見所は主郭南の尾根続きだ。
二重の大きな堀切がある。

下の写真は主郭直下の堀切。
主郭部と同じで、堀切両サイドの竪堀は積極的に掘っていない。
                      
 



一番バエるのが、最南端の堀切である。

あまり深いものではないが、シッカリした堀だとわかる。

















最南端の堀切を、主郭側から望む。

久々の訪城で、
こういう景色は、とても癒される。















追記であるが、城に向かう琴平ハイキングコースの細尾根に、
意図的に置かれたかと思われる岩がある。
写真画面右の岩の真正面に、もう一つ岩があり、
ハイキングコースが鍵型に曲げられているのだ。
自然にできたものか?偶然か?

実は、北に向かう細尾根にも大きな 『べっとく岩』 があり、
意図的に道を狭めている匂いを感じるのである。



     ___________________________________________



ひととおり城見学が終わった私。
時刻は12:30となっていた。

今回、2020年の第二シーズン初の城見学となった。
太った体と、日頃の運動不足が祟り、もうヘロヘロ。
帰りのバイクで足がつりそうだ。










※当城掲載資料
図説中世城郭事典1 埼玉県/ 児玉幸多 坪井清足 編/ 新人物往来社 昭和54年
 【既存縄張り図の評価】  新人物往来社・図説中世城郭事典1に長者屋敷の図面が掲載されているが、北西の尾根形状の捉え方が間違っている。
                しかし大切なポイントの欠如はない。ま、かんたんな縄張りだし、そんなに解釈の違いは生まれないのだろう。

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三峰神社城?
(写真掲載のみ)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

宗教城郭???  2020/07/28

埼玉に転勤になったのに、三峰神社に来ていなかったのでお参りに来た。
三峰神社が城であるということは昔から良く聞くが、本当であろうか?

神社までは昔、ロープウェイで登った記憶がある。
しかし、廃線となっていた。
今は車で上がるしかない(徒歩という手もあるが。。)。


 

この展望台横に堀切があるというが、夏でもあり、天気も悪く、とても見に行く気にならない。
 

”まあ、いいや。”

こんど天気の良い時に機会あらばまた来よう。



 
  
 【既存縄張り図の評価】 評価もなにも・・・・、見てもないので何も書けない

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城峯山?/鐘掛城?sk   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

               

平将門??全山城ぉ?  2018/10/21
    
 ◆原図 YAMAPより  
  ”城峯山”は、どう見ても城郭関連地名。
  それ故、いろいろネットを探ってみると、どなたかのサイトに、

 
!天狗岩あたりに遺構がある!

 と書かれているのを見つけた。  
 また、その東側の鐘掛(かねかけ)城と書いてある場所にも、
  削平地があるという。

(※場所は左図 ご参照ください)






             


        2018年10月後半。

        季節は、秋の装いになってきた。

        しかし、マダマダ低山には草が多い。

        蚊は少なくなったが、その代わり蜘蛛の巣がやたらに多くなる季節だ。





  だが、城峯山は標高1000m級。

  きっと、草も虫も少なく、調査しやすいに違いない!


 
  「よし。今シーズン初動は城峯山に決めた!」
  

  追跡先頭車2号の試走を兼ね、管理人は現地へ飛んだ











左の現地看板を見て欲しい。
埼玉県、環境庁の調査では、

「城峯山には馬洗い渕、お屋敷場と呼ばれる場所や
鐘掛城、王城、城平、城の沢等の地名が残っています。

埼玉県による発掘調査では、
物見跡と考えられる
平場が確認されており
城峯山全体が中世戦国時代の物見の山であった
と思われます。


と書かれている。








      だが、結論から言うと、管理人の調査では

  
          
ここが城跡だという決定打が無い。

      従来であれば、情報調査掲載レベルのものであるが、埼玉県と環境庁の発掘調査に敬意を評し、”城跡” として本編に掲載することにした。


 
 

 【解説】



城峯山攻略には、まず、この城峯神社から登るのが穏当であろう。
駐車場もバッチリある。
季節柄、誰も止めてないし、ここからの眺めは最高である。

  




  見渡すと、季節は秋の装いになってきた。

          ◆今回調査の周辺図。原図 YAMAPより 









キャンプ場を抜け、天狗岩を目指す。
途中、”将門の隠れ岩” と城峯山方面への別れ道がある。
上級者以外は登るな!!」と書いてあるが、近道なのでこちらを選ぶことに……

ところが、これがかなりキツイというか、かなり危ない。

読者には、この道は避けて、城峯山方向からの迂回路をお勧めする。
実は、管理人は方位磁石を落としてしまい、ここを二度も登ることに・・・。
将門の隠れ岩というものの、結局、天狗岩の背後の岩塊のことの様である。
遺構も無いので、城を目的とする人は、この道は避けたほうが良い。

          ◆将門の隠れ岩方面、「この先危険」の警告文


   ______________________________________________________________
  
さて、危険な山道をとおり、天狗岩に到着。

この辺りはすごい岩盤地帯。
油断すると落下してしまいそうな細尾根となっている。

      ◆原図 YAMAPより 







天狗岩からは素晴らしい眺めだ。
確かに、監視には向いているだろう。


しかし思うのは、
このような場所に、わざわざ普請をするのか?と言うことである 。
土塁や堀を作らなくたって、十分この地形でカバーできそうなのである。

 













                   


  

 確かに天狗岩の東西に堀切様の地形が見受けられる。

 私がかつて見たネットの投稿者は、おそらくここを堀切りと見たんだろう。

 一応図にしてみたが、西の堀?は天端がはっきりせず、竪堀も伴わない……というか、竪堀は掘れないだろう。

 なにしろ両脇は崖だ。

 筆者は自然地形と見ている。

 


反対の東の物は、岩盤堀切りの様に見える。

しかし、
自然のものだろう




  ________________________________________________________________

   



天狗岩を後にして、さらに西の峰続きも調査した。 

左図の黄色部分、標高949m地点。

    だが、
遺構はない。


◆YAMAP登山履歴より


 _____________________________________________________________




気をとりなおしして、今度はちゃんと城峰山山頂を目指す。


先ほどの危険な将門隠れとの分かれ道を、城峰山方面に向かうと左写真の道標に出る。

このまま、城峯山に向かう。



















山頂だ。
なだらかな尾根で、山頂付近には城郭遺構は何もない。

ここからの眺めも最高である。
信玄が攻めて来るであろう甲州方面もよく見える。
展望台もあり、両神山の山容や、榛名、関東平野方面など360度の展望である_____


___ だが、
城峯山には遺構は皆無






                



   ______________________________________________________________

 最終目的地、鐘掛城を目指す。
 地名にも山地図にもその名前が掲載されているので、ちょっと期待?しているのだが。。。。。


 さて、その途中、石間峠の舗装路との合流直前に、妙に広い平場がある所に出くわした。
 あれ?人が住むには良さそうな場所だなぁ、と歩いていると、ガクッと大きく下る場所に出た。

   ◆原図 YAMAPより 

 図にしてみると堀切に見えなくもないが、なんとなく決定打がない。
 南側はダラッとしてるし、北側に竪堀も落ちてない。
 
ここも自然のものだろう。。。と思いながら鐘掛城を目指した。



 ________________________________________________________________



石間峠の舗装路との合流から、さらに東に進む。
途中のピークにも遺構が無いことを確認しながら、
鐘掛城に着いた。

         



 周りを歩いてみたが、
遺構は皆無
 という事で、城と名のつく地名であるが、城ではない。
 確かに物見程度の物があったのかもしれない。
 再三言わせていただいているが、堀も土塁も築かず、すぐ放棄しても良い様な場所を、当ホームページでは城とは認めない。





              



ここがいかにも城であった様な解説版が立っている。
冒頭にも書いたが、埼玉県の見解では、山全体を城としているからだ。


  
私見では、ここを城とする事は出来なかった









     
 【既存縄張り図の評価】 評価できる図面は今のところ無い。【既存縄張り図の評価】

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諏訪城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

               

 旧図    1981/02/11

  
【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、少々難があると思われますが、ご参考に。
       今後機会をみて改訂したいと思います。
 
                         
【注意書き】
 管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
 大変お恥ずかしい物ばかりである。
 読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。

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熊倉城   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

コンセプトのはっきりした城です!  2020/05/24

 【解説】

 

◆ 電子国土より

5月も終わりになれば、草、虫、獣が増え、中世城郭シーズンはもう終わり。
ただ、高い山ともなれば、下草が少なそうだ。
と、いうことで今シーズン締めの城として、熊倉城をチョイスしてみた。
熊倉城はなんと、標高648mの高地に所在する。



熊倉城へは、荒川中学校(日野)側からの林道で、図のまでバイクで登れる。(通称:城山登山口)







 

 
 
 林道途中、通行止めのゲートがあるが、半分開いていたので、構わず通った。
 後から地元軽トラも登ってきたので、たぶん問題は無いのだろう。

 ちなみに帰りに白久側へ降りてみた。
 しかし道路がボコボコで、バイクも通行困難である。
 去年の台風でやられたままだ。
 こちらは麓からも上がれないだろう。
(Twitter情報で白久側は通行止めだそうである 2020/05/24時点)








  

 果たして、管理人の読みは当たった。
 熊倉周辺の草は少なそうだ。

 ただいけないのが、これである。
 ”
熊出没注意” の看板。
 これがやたら掲げてある。










 
  熊倉城...。
 実はその呼称についても、果たしてここが本当に熊倉城なのか??という所も定かではない。
 秩父志の馬立城の話。。。
 熊倉城を攻めるため武田側が作ったという ”小畑の陣” の話。。。。
 長尾景春が太田道灌に攻められ退散して来たのがこの日野(熊倉)城だと言う話。。。。
 謎が多いが、一応通説どおり、ここを ”熊倉城” と名称させていただこう。
(・・・整理できていないが、本HP 「情報調査」にコラムを記載中)


 

 さて、
熊注意!の看板を背に、ハイキングコースに突入。
 綺麗に整備されたハイキングコースで歩きやすい。

 暫くすると、
一の堀が見える。
 細尾根をちょっと削った感じの堀切であるが、
 残在状況が甘く、自然のものかもしれない。
 




 



さらに登ると巨大な堀切りにぶつかる。
 
二の堀である。

一の堀とは異なり、規模が大きい。
こんな山の中なのに、土木量は半端ない。





 


 綺麗に土橋も残る。
 堀切の両脇は竪堀になるが、
 10メートルほどでスパッと収束する。
 
 堀切りを渡ると、東に土塁を伴う曲輪が有る。
 見張り番の兵士の駐屯場所だろう。

 だが、ここから先は主郭まで
自然地形となる。








 
 
 主郭前には、
三の堀がある。
 かなり埋もれているようだが、幅のあるしっかりした堀だ。
 





 
 堀の中央に土橋がある。
 土橋を渡り中に入ると、両側を土塁が挟む。

 主郭内は真っ平である。






  

主郭南西側の土塁は高くなっていて、矢倉台と考えてよい。
  




 土塁は全体的に薄いが、主郭をグルリと回っていたようである。
 しかも低く太い。
 この事から、鉄砲を意識した時代の城と言える。
 現状遺構は、先の長尾景春時代の物では無いと考える。







 主郭の北に、
四の堀がある。

 三の堀とほぼ同じ規模で、 東西に一直線に走る。


 





真ん中に土塁の切れ目があり、
虎口か?と思われるが、土橋は伴わない。
主郭との連絡は、
直接堀に下ろしていたか、
切れ目は後世のもので、
虎口が全く無かったのかもしれない。

堀の東側は
綺麗な竪堀に切り替わっている。












 ◆マウスを乗せよう(スマホの方は先頭に戻ってしまいます。ご容赦ください)


その竪堀の始まるところに
主郭
東腰曲輪に入る虎口がある。
土塁で道を狭めている。

竪堀は10mほど降ると、
半月型の曲輪と繋がり、収束する。
この曲輪は、
尾根を登ってくる敵を監視していたようだ。
この曲輪の下が、
緩い尾根地形となっているからだ。














 ◆主郭東壁面と腰曲輪(腰曲輪内、南から望む)               ◆主郭東壁面  (主郭内北から)
                 





















 東腰曲輪に対し、主郭の西下には
西腰曲輪がある。
 かなり傾斜していて、建物を作るにはちょっと??という平坦度だ。
 人が詰めるくらいはできたのであろう。











   ◆竪堀とされているが、自然のものであろう 
 西腰曲輪に続く斜面に二条、
 しっかりとした長い竪堀を描いている図面を見かける。

 しかし、これらは本当に竪堀だろうか?
 管理人は、自然の谷、崩落の跡と考えている。
 なぜかと言うと
 東の腰曲輪の竪堀は自信を持って 「竪堀」 と断言できるが、
 西面の竪堀(?)は非常に曖昧で
 胸を張って竪堀と言えないからである。

 この城は、高い山地故、普請は最小限にしたと考える。
 加工する場所、しない場所を明確にした為、
 加工した場所は、現代でもハッキリ遺構が判断できる。
 それに反し、この曖昧な竪堀(?)は人工の物とは思えず、
 結果的に自然の物と考えたのである。
  




 さて、四の堀を出て北に進むと、再び
自然地形となる。
 ここをシッカリ曲輪として書き込んだ図面をいくつか見かけるが、どう見ても自然地形だ。
 現地案内板も曲輪としてみているが、私は納得できない。
 
          ______________________________

 
 その自然地形を50~60️ほどm進むと、尾根筋が急にカクンと落ち込む。
 
五の堀である。

  ◆マウスを乗せよう(スマホの方は先頭に戻ってしまいます。ご容赦ください)


 



堀だけに見えるが、
自然地形を巧みに利用し、
堀を鍵型に曲げ、横矢を掛けている。























 また、西側は堀をオフセットさせている。
 二つの堀の間に、傾斜した土橋を作っている。
 このような斜面にどんな建造物(門)を作ったかは不明だが、非常に凝った作りである。
 堀の両脇は、竪堀になるわけでもなく、尾根上で空堀として収束する。
 ここから先は再び自然地形となり、尾根が山を下る。

  ◆マウスを乗せよう(スマホの方は先頭に戻ってしまいます。ご容赦ください

 







分かり辛いが、
左写真はオフセットして作られた空堀。
この城の中で、最も技巧的な部分である。













 
 
■あらためて二の郭/三の郭、西斜面竪堀について
 
 この城の縄張り図面には、主郭西斜面の竪堀や二の郭/三の郭と称し、
 主郭南北の広い空間を ”曲輪” として書き込むものが見られる。。
 
 しかし、よく考えれば、二の郭/三の郭を含めるとなると、
 この城の守備範囲は恐ろしく広いものになる。
 この城は標高648mの山の中にあり、水も少なく、
 果たして、こんな広い領域に人を配備できたであろうか?
 ・・・・・管理人には、考え難い。
 
 繰り返しになるが、この城は普請場所をかなり限定していたと考える。
 南北両端の堀遺構はその現れで、どちらも自然地形の中に突如、堀だけ現れる。
 守るべき場所は、主郭周りと南北の両端の堀切周辺だけだったと考える。
 余計な加工をしない分、堀切りは堀切り、竪堀は竪堀として、現代でもはっきり残っている。
 
 今のところ、管理人は
  
西斜面の竪堀の存在と、
  
        二の郭、三の郭の存在には否定的
であ




   
 
 熊倉城は遺構のハッキリした素晴らしい城だ。
 先述したが、鉄砲を意識した戦国時代の城と考えられる。
 情報調査(書きかけ)の小畑の陣含め、今後もっとこの山の中を歩いてみたい。
 ちょっと熊が怖いけど。。

 今シーズン(2019秋ー2020春)の調査はこれで終わり。
 振り返ると、2020年明けから始まったコロナ騒ぎのおかげで、
 今シーズンは花園城、花園御岳城、青山城、そしてこの熊倉城しか踏査できなかった。
 綺麗な梅や桜や山菜採りに出かける事もできず、悔しい年になった。
 
 来シーズン、期待しよう。
 
 

■画像は電子国土より

 【既存縄張り図の評価⠀】 
                現地縄張り説明板含めて、西斜面の竪堀や、二,三の郭を書き込んでいる図面、イラストが多い。。。。。
                 山続きの峰も城域に取り込んでいるものもある。
                人は確かに居たのかもしれないが、曲輪としての加工痕が無いため、当方の縄張りでは、図面のとおりの表現となった。
                「秩父志」
(埼玉叢書1 国書刊行会 1970)には『真建城』として、二重の円形の堀に囲まれた絵図が掲載されている。
                熊倉城=真建城というのが通説らしいが、余りにも縄張りが違う。
                通説が本当なのかは、わからない。

                

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竜ヶ谷城(久長)   電子国土へのリンク ※中心位置表示にチェックを入れてください

旧図    1993/12/24

 
 【お断り】本図は管理人の若かりし頃描いたものであり、かなり難があると思われますが、ご参考に。
        今後機会をみて改訂したいと思います。


       
                             
【注意書き】
 管理人は、かつて東京、埼玉に在住していたことがあり、(実は生まれも育ちも東京都)過去の反省もかねて、若かりし頃に描いた縄張り図を公開する。 
 大変お恥ずかしい物ばかりである。
 読者の方はあまり信用しないで、参考程度にご笑覧願いたい。
   



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