宇都宮市2019 枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします 

 ◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
 ◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
   この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
   (注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
 ◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
  パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある
。  

犬飼城sk 千貫坊遺跡sk 下横倉城sk 飛山城sk
石那田城sk 大堀城sk 『江曾島城』 宇都宮城(写真のみ)
『平出城』 田中城sk 猿山城sk 『下川田城』
『桑島城』 刑部城(解説のみ) 北ノ館(写真と文のみ 戸祭城(写真のみ)
 雨乞山城sk      




犬飼城sk・上欠町根小屋位置へのリンク

    
copyright.2005 masaki
【解説】
作成 1982年11月28日作成
今から23年前の調査結果であり、少々難有りの図である。
後北条氏が宇都宮を攻めた時に改変されたという推論があるが
確かではない。






千貫坊遺跡sk位置へのリンク


copyright.2005 masaki
【解説】
遺跡の報告書では、中世の遺跡として紹介されていないようであるが、図化してみると
マンマ中世城郭。
④の下横倉城と同侵食谷を守る位置にあり、関連が伺える。




下横倉城sk位置へのリンク


copyright.2005 masaki
【解説】
調査1986年。なんでも東側峯続きに、大きな
堀切があるようであるが、見落としてしまった・・・・・・・。






飛山城sk位置(マピオンへのリンク)


copyright.2007 masaki
【解説】
最近史跡公園として、大々的に整備された。
最外郭の北側や、主郭内部も発掘成果を基に、堀・土塁が復元された。
横矢が発達しており、最外郭の張り出しはこの城を特徴付けるものである。
また、空堀両側に土塁を設けているのも特徴的だ。
位置(マピオンへのリンク)
復元された張り出し 旧状のままの張り出し
同慶寺(飛山城の支城

 飛山城の対岸。
 国道を挟んだ東の丘に、同慶寺がある。

 この寺は飛山城の支城があっとされ、内堀・外堀で固められた,
 かなり大きな規模の城であったという。

 堀跡でもみれるかな?
 と思い、真夏だが同寺を訪れてみた。

 しかし、 『ん?』 という感じで、どこに堀跡があるか皆目検討つかない。

 もうちょっと、下調べをして出直す事にしよう。

 同寺にある、芳賀氏歴代の五輪塔、宝篋印塔を見て、この日は退散した。








石那田城sk位置へのリンク) 


copyright 2007 masaki
【解説】
 宇都宮氏家臣の城と言われている。

 有料道路工事で、大半が破壊された。
 現在は上記のように、一部の残欠のみである。

 城の南には田川が流れ、天然の堀となる。
 主郭西の堀は、異常に狭く、埋め立てられている可能性がある。

 田川に近い方に横矢が一箇所見受けられる。
         
◆主郭西の堀跡・・・多分、かなり埋められている感じを受けた





大堀城sk 位置(マピオンへのリンク)


copyright2006,masaki
【解説】
 姿川の支流、大堀川の西岸に位置する。北に今宮神社が隣接する。
 現在、半田氏の敷地北に堀が明瞭に残る。

 聞き取りによると、かつては下記のように堀が回っていたらしい。
 半田邸の現在の入り口で、堀がクランクし、横矢がりが存在した可能性もある。
 参考文献・栃木県の中世城館跡

◆ 堀の推定・・青トーンが推定堀領域
◆北の堀の状況
◆最東の堀の状況
◆今宮神社の入り口・・林内が堀







『江曾島城』位置(マピオンへのリンク)

【解説】
江曾島城は、前方後円墳の上にあったそうである。
現在は跡形も無く、進入不能の参道のある雷電神社があるのみである。
雷電神社は墳墓上に存在していたらしいのだが、想像もつかない。
◆雷電神社 ◆行くとわかるが、この参道。入れない。。。






『うちゅのみやじょう??』 相当バカにしてます!

【解説】
まったくひどい物を作ってしまったもんだ。
栃木県民として、まったくもって恥ずかしい。
震災時の避難場所とするなら、このような物は作らずに、まっ平らのほうがまだマシ。
城風の建築物や堀のお陰で、余計なデッドスペースができてしまっている。
こんなもの見たら、小さな子供たちは城そのものを、間違って思い描いてしまうのではないか?

市民を巻き込んでの復活劇に対しては頭が下がる。
しかし、どうしてこうなってしまったんだろう・・・。これじゃぁ、映画のセットにも使えない。


土塁にトンネル。埋み門か?・・・

エレベーター付き土塁

サンダーバード秘密基地?・・

土塁内は格納庫・・2号発射!!

・・・・・・???

土塁の中は震災時の備蓄庫という・・・

清明台・・??

櫓?内部





宇都宮城(写真のみ)位置(マピオンへのリンク)

宇都宮城 松ヶ峯門付近【2010/07/18】
【解説】

松ヶ峯に、宇都宮城の土塁が残ると聞いてやってきた。
左写真は、松ヶ峯門の跡と紹介される場所。

城とは関係ないが、
    戊辰戦争で土方歳三が負傷した場所と伝わる。








 
   さて、土塁である。
   一帯は思いっきり住宅街であるが、あたりをブラブラしてみると・・・・・・・


   柵で囲まれた怪しい緑地帯がある。


 マンション・アサヒレジデンスの裏。
 一条中学校のそばである


    
怪しい・・・



 でも、なんとなく決定打に欠ける。













                
 どうも、人の家のお庭
   になっているようである。

























                  
あったぁ!


                   青柵のむこうに土の壁が見える
                    本物の宇都宮城の土塁だ!
                     (マウスを乗せよう)


   


    



 確かに宇都宮城今昔の図を見ると、
 一条中学校の横を、南北に土塁が走り、
 松ヶ峯門に続いていた事がわかる


















  (宇都宮城想定図・製作 宇都宮城跡蓮池再生検討委員会 栃木県立博物館・名城宇都宮城より)







 さらに古い地形図を見ると、
 確かに現一条中学校の横に、土塁の残欠が見える。
 上写真の場所と合致することは言うまでもない。



 宇都宮城本丸は、
 イミテーションができた事により、
 逆に本当に死んでしまった。。。。

 しかし間違いなく、ここ松ヶ峯の土塁は本物。
 ほんの少しだけど、良くぞ現代まで残り、
 私の目に写ってくれた。

 ありがとう、土塁。


 
  
  
   











栃木県宇都宮市全図・部分 大正15年 栃木県立博物館・名城宇都宮城より)




        伝・宇都宮城 今小路門位置(マピオンへのリンク)

伝・宇都宮城 今小路門【2010/06/13】
【解説】

宇都宮市郊外に、
今小路門を移築したと伝わるお宅があると情報を得た。

本ページの”北ノ館”の直ぐそばなのだが、
なるほど門構えがどっしりしている

      
     
         




ちょっと、中を拝見させていただいた。



高麗門ではなく、薬医門だったようである。
しっかりした木材がなんとも本物っぽい。

ただ扉は見当たらないようだ。

















 側面の斜めに渡る梁は、後世の付け足しと考えられる。


 本物であればかつての位置はここである。
 
  

”伝”今小路門。
  
   前述の秘密戦隊基地のような宇都宮城本丸よりも、
                      こちらの方が、よっぽど美しく、しかもロマンがある。








『平出城』 位置へのリンク

◆光琳寺枝垂れ桜・樹齢200年 ◆平出城周囲現況
【解説】
「栃木県の中世城館跡(栃木県文化振興事業団」では、枝垂れ桜で有名な光琳寺周囲の民家に
一部の土塁、空堀が残されている様である。

しかし、残念ながら遺構は見つけられなかった。
当地は現在、水田地帯の真ん中に位置している。
しかも周辺には老人ホームや、墓地、民家などが建てられ、遺構の破壊は著しいと考えられる。





田中城sk電子国土・位置へのリンク


copyright.2007.masaki

◆A部 堀(上)

◆田中城を望む(下)
【解説】
2007年、退院して、始めて訪ねた城がここである。
場所の特定が難しく、3度目の正直で、やっと図面化にたどり着いた。
当城は宇都宮市家臣・田中氏の城という。

地主の方にお話を伺うことができた。
お話では、当地には昔、寺があり、それ以前には城?があった。
近隣の鶴カントリーゴルフ場の造成で、この地から土を搬出したため、
現在は窪地のようになっている。
搬出前までは、堀が周囲を一巡していたという。
私のように訪ねてくる人が結構いるので、
「土取りなんか、しなきゃよかった」とまでおっしゃっていた。

さて、城であるが、図のAの部分が遺構と断定できる場所である。
には深さ1mほどの堀と、高さ2mほどの土塁が残る。
Aから土取りに沿って北に伸びる土塁は、往時のままと考えられる。
は堀切のようにも見えるが、?である。

さて、城の中心部は聞き取りによると 「あ」 である。
しかし、A周辺を見ると「あ」のほうが「い」の部分より標高が低いのである。
しかも土塁の「あ」側壁面は、土取りで高くなったように見えないのである。

そうなると、城の中心が「い」方向である可能性もある。
しかしながら「い」方向には、決定的な城の遺構が全く見受けられない。
やはり「あ」側が、城の中心部と考えるほうが穏当なのだろうか?

遺構が失われた今、断言ができないでいる。





猿山城sk(写真と文)電子国土・位置へのリンク
                  

                              copyright.2009 masaki
   (※注)城という大前提の元、彩色しました。
      作図の際、方位磁石を持ち合わせていませんでしたので、
      曲輪間の位置関係に難ありです。
      ご容赦ください。

【解説】
 はたして猿山城は『城』なのであろうか?
遺構を見る限り、私にはそう思えるのである。
当地が合戦場となった記録があるが、その頃に築かれた陣の跡なのか??
それとも、近代のものなのか・・・・??


 消化不良もはなはだしいが、遺構として紹介してみよう。

 あの部分は、神社である。
神社が、堀と土塁をもって囲まれる例は鹿沼市でも事例がある。

 次に
の部分。
堀の深い部分は、いかにも『城』なのであるが、
私には『道』に見える。
ただ、道にする為に、何故古墳を利用して土塁を作らなければならないのか?
道のために、何故平坦面を掘り下げなければならなかったのか?
そこが疑問である。

 仮に城として考えた場合、この遺構は防御、攻撃面の糸がつながらない。
堀は途中でどんどん浅くなってしまうのである。
中世に、猿山の地で合戦が行われたそうである。
とすると、そのときに作られた戦闘時の『塹壕』跡なのであろうか?

 うの部分。
区画された浅い堀と土塁は、近世の屋敷跡では?と疑いたくなる。
方形居館か!とも思いきや、江川に遮られ、四角形にはなりそうもない。

それとも、
あ、い、う含め全体が、神社の跡地か??

どうにもこうにも分からないというのが、この『城?』の印象である。


 さて、今回は不幸なことに、突発的な訪城だったため、方位磁石を持ち合わせていなかった。
縄張図を書いてはみたものの、図面にかなりの方位ズレが生じていると思う。
ご勘弁願いたい。

                    
                     
                         ◆猿山城をのぞむ。


◆右手に空堀と土塁のラインが走る(図中A)















 
◆コーナー部は確かに大きく土塁があるものの・・・
(図中B)
















   








◆通りの向こう側にも堀?が続く(図中C)

























『栃木県の中世城郭(栃木県文化振興事業団刊)』では、
『宇都宮興廃記』に宇都宮忠綱と結城政朝が1500年、猿山で合戦したとあるらしいが、
どうも、”城”があるから合戦となったという事実ではないらしい。
単純に”猿山”という場所で合戦があったとも捉えられる。


【手記】

息子の弓道の検定会場である屋板運動場。
的場の検定本番までには、かなりの時間があった。
そこで、当城に立ち寄ってみることに。。。。。

最近、日光市小山城に続き、なんでこんなニッチな時間にしか訪城できないんだろう!
そう思うと悲しいが、見学できるだけマシか・・・・

しかし、今回は方位磁石は忘れるわ、結局息子は検定に落ちるわで、散々な目にあった。







『東川田城』位置(マピオンへのリンク)


【解説】



「栃木県の中世城館跡(栃木県文化振興事業団」では、バス停近くの神社に土塁の跡があるという。



おそらく、左記写真の場所だと思う。
稲荷大明神の横に何となく高まりになっている場所がある。
これが城の遺構の名残なのかどうか良く分からない。





その他、城域は住宅街や田んぼになっている。
その字名は、大城内(すごっ!)。


城があった事は間違いなさそうだ。




      
◆付近は田んぼ
◆神社脇に残る微高地
◆神社脇には川が流れる
 




◆大城内公民館



『桑島城』  位置(マピオンへのリンク)


◆屋敷を正面から

















◆屋敷の背後に残る土塁

















◆近くに鎮座する高龍神社。背後は古墳らしい。
【解説】


さて、
この手の遺構には注意が必要だ。
なにしろ、宇都宮には土塁囲みの大きな農家が多い。(下段に事例を紹介する)



わたしも、過去にこの手の遺構を「城」として紹介してしまった苦い経験がある。
えらそうに、『ここは城である!』と本に書いてしまったのである。

農家の境界として築かれた可能性がある事が後でわかった。
出版物と言うのは、取り返しが効かず厄介だ。
幸い、今のところ批判は受けていないが・・・・



 話を戻そう。


桑島の遺構は、屋敷背後を巡る土塁だ。
土塁が半周分残っている。(全てを確認していないが・・・)

写真のように、一直線に伸びている。

明確に”堀”と断言できるものは残っていない。

    そこが、
      怪しいところだ。

実際の”城”であれば、この手の立地条件では、”土塁だけ”と言う事は、まずあまり無い。
必ずと言っていいほど、空堀・水堀が伴うものだ。

そうなると、近代の構築可能性も出てくるが、
”桑島城”という城の存在が他で明らかなのであれば、城はもっと別の場所にあったのかもしれない。






◆お屋敷に残る土塁

 宇都宮市内には、写真のような土塁を持つ農家が多く点在する。

これは平出の、とあるお屋敷である。
広い田んぼの真ん中に、広く四角い土塁が現れる。

土塁の高さはさして高くなく、1,0mほどであろうか。














この手の土塁は、おそらく屋敷地などの境界として、近代に築かれたものだと考える。

特徴としては、

・土塁はあるが、堀がない。
・土塁は直線的で折が無く、横矢意識も無い。
・コーナーに矢倉台などが無い。
・虎口(入口)は平入り。

などがあげられる。









とにかく、
それっぽく見える所が紛らわしい。

写真の土塁は、あまりに囲い込む面積が広いため、

  『ちょっと、ちがうんじゃない??』

という気持ちにさせた。

しかし、
程よい広さの土塁囲みの家もあり、
そういう所に限って、字名が『堀の内』だったり、『宿』だったりする。

地籍図でも四角くなってたりすると、本当にどう判断したらよいかわからない。。。。






刑部城(解説のみ)位置(マピオンへのリンク)


◆城址看板

◆堀は田んぼとなる


◆道沿いに残る土塁
【解説】



刑部城は、市指定の遺跡となっている。

城址入口にも左のような立派な看板があるので分かりやすい。














城域は、大きな農家の敷地となっている。

刑部城が桑島等と違うところは空堀が残っていることだ。













城域は、この農家周辺一帯であったと思われる。
複郭を思わせる土塁も残っているようだ。


いずれにしろ、草の無いシーズンを狙って見学させていただこう。


今回は写真のみの紹介とさせていただく。






北ノ館(写真と文のみ)位置(マピオンへのリンク

北の館【2010,06,14】とうとう見ぃーつけた!!


以前、HP内の”情報調査”-「毘沙門」の項で、 北ノ館”※ なる城跡があるらしいと紹介した。
(下図位置)

しかし、場所が全く分からなかった。

今日は宇都宮城の唯一の現存城門 ”今小路門” を見に行こうと、ブラブラと市内を徘徊していた。
そうしたら、副産物として、この北ノ館を見つけたのである。

なーんだ、宇都宮市で遺跡として、ちゃんと登録されているんじゃないか!?
これまた、全然知らなかった。。。



※現地説明板を尊重し、あえて”館”という言葉を使っています。
【解説】
                   




宇都宮城・今小路門を探すために、車で徘徊していた。
狙いの場所あたりのお宅で、左の写真の門が見えた。
「お、これか??」
と思いきや、その左手に下の案内板を発見したのである。

ちなみに、この門は今小路門ではないらしい。






          ◆現地案内板
      

案内板を見ていただければ分かると思うが、城主などは明らかでないらしい。

城跡一体には”堀の内、中城、西城、宿”という字名が残っている。
この字名からすると、城であることは間違いなさそうだ。

かなり期待ができそうだが、城跡は完全に私有地である。
中には入れそうもないので、まず、一回りする事に。。。。





 
”えーっつ!
   ちょっとぉ~
  これが土塁ぃ??
    低くねぇー!?”

というのが、
私のファーストインプレッション。
何となく、怪しい感じが。。。。。


土塁(土手?)は屋敷を巡っていそうだ。

その手前には水堀と大きめな池がある。












上の写真の土塁(土手?)はその先で
90度に曲がり、標高の高い方に進む。
堀もそれに伴う。





















土塁(土手?)越しに
今小路門と間違えた門を望む。

解説には、
”2mの土塁”があると書いてあったが、
一体どこなんだろう?
そこまで高いものは見当たらなかった。

















 
”字”からすると、間違いなく城っぽいんだが、
どうしても、近世の屋敷の境界に作られた土塁に見えてしまう。。。。。

  





戸祭城(写真のみ) 位置マピオンリンク

戸祭城(写真のみ)2011,02,26


戸祭城は、宇都宮市の中心部、祥雲寺近辺にあるという。
この城を築いた戸祭氏は宇都宮氏に属していた。

”栃木県の中世城館跡”では、
祥雲寺の南西に堀跡が残っていたとされるが、
”日本城郭体系”にでは、祥雲寺北側に堀があると言う。

今は、破壊されていて見る影も無いらしいが、現地調査の結果では、
どこが城であったかもわからない。


祥雲寺




   祥雲寺の裏山は全て墓地になっており、
  城郭大系の言う”北側の堀”の存在は
  確認できない













    ◆写真は頂上部




祥雲寺本堂




雨乞山城sk    電子国土・位置へのリンク 

 布団と城   2014/11/08

 プロローグ

 女房:「今日って、天気どう?」

 管理人『そんな悪くないみたいだよ、日も出てるし。』

 女房:「じゃあ悪いんだけど、洗濯物干しておいてくれない?」

 管理人『OK~』


  今日は土曜日だが、彼女は仕事であった。
  女房はそう言うと、そそくさと出かけて行ってしまった。

  管理人は休みなので、城に行こうと考えていた。
  しかし、まぁ仕方がないので、洗濯機を回し、軒先に洗濯物を干して出かけた。


   ”ついでに、
布団も干していくか。。。。” 


   管理人は、女房に頼まれもしない
布団も干すことにした。


        
・・・これがいけなかった______

             
 
 

 本日選んだ城は、雨乞山城。
 多気山の北方1.5kmにあり、宇都宮射撃場の裏山である。

 当ホームページでも紹介している、”田中城”の背後の山でもあり、
 この城との関連性は容易に指摘できるところである。

 間違いなく宇都宮氏関連の城であろう。


        



 山が近づき、山容を観察すると、凄い岩山であることに気づく。
 写真ではわかりづらいが、東面は断崖絶壁となっている。
 古賀志山含め、このあたりの山は岩山が多い。

            しかし、いい天気だ。



        




 農作業をしているオバちゃんに登山道を聞く。

 「この先のお墓の横から上がるといいよ。でも、雨乞山って城なのかい?」

 地元でも雨乞山が城であることは知られていないらしい。
 まぁなにせ、最近城と確認されたばかりだから、仕方ないか。。。。

 「猪が多いから、何かあったら山から大声かけなさい。ここでも聞こえるから。」

 本当に、ご親切なオバちゃ・・・・
(もとい)ご婦人であった。
 ありがたい事です。







 ご婦人と別れ、ほどなく歩くと、お墓が現れる。

 左写真のお墓を右手に見る細い道がある。

 これが、雨乞山の登山道である。











 

 

 途中で道は薄くなり、間伐林の間を直登。

 傾斜が段々きつくなる。

 歩いていくと、どんつきで、大きな岩盤の壁に突き当たる。








              ◆現地縄張り図


 

 【解説】        

 
 さて、
 岩盤を避け、回り込むと_____
 



 


 __尾根上にこのような
大岩が見える。

 雨乞山の虎口か!?

 と思いきや、後にわかるが、主郭よりは程遠い。


 










                

      

  ◆雨乞山彩色図

            
 

 最高所の主郭に着いた。

 特徴的なのは、この城は、東前面が岩盤で覆われている事である。
 この山容を見れば、敵兵も怯むのは間違いない。


 しかしながら、現在、この山は荒れている。
 木々に遮られ、視界も悪く、写真映えがしない。


 仕方なく撮ったのが主郭より北方、
北側③番の堀切
 結構大きなものだが、ホント写真だと良くわからない。
 この先にも遺構が続く。

   


この城で『堀』と認められるのは
8箇所である。


主郭南側には3箇所。
(南側①~③番)
北側は5箇所。
(北側①~⑤番)

























 所変わって、
主郭南側①番の堀切

 堀の中から撮ってみたが、
 こっちのほうがわかりやすいか。。


 この左手に、カニ手の様な
 土塁を伴う虎口がある。




 






               
しかし、相変わらず、城の写真って難しい。


     
 

 
 雨乞山の歴史はわからない。
 ただ、その山麓に田中城がある事から、麓の城と山の城ということで、
 その関連性が伺える程度である。


 



 
エピローグ

  
スケッチブックに縄張り図を描きながら、あともう少しまで来たところで、携帯が鳴る。
  女房からのラインである。

   
『天気が悪くなってきそうだから、出来たら洗濯物取り込んどいてね!』



   
『んっ?・・・なに!?』



      
あたりを見回すと、確かに暗い。青かった空は何処へやら・・・。

           






           
・・・・ っ!

                      布団!

                         

            



                            

            
大体、雨乞山(あまごいやま)城。
          城の名前も良くなかった・・・





          管理人の城見学は、いつも時間がない。



                    
(雨乞山終了)