大田原市2019
枠内の城名を触ると、縄張り図にジャンプします
◆①記号SKは、現地調査の生DATA=スケッチを示す
◆②『 』内の城は、調査したが、遺構が見あたらない城を示す。
この場合、縄張り図の代わりに、地籍図や写真等を掲載している。
(注)遺構が無いからと言って、そこを城として否定しているわけでない。
◆③図は断りのない場合、上面が北を示す。
パソコンの特性上、縄張りをすべて画面上に掲載できていない場合がある。
佐久山城sk | 水口城sk | 荒井城sk | 大田原城sk | 大関城sk | 青木要害sk | 亀山城sk |
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◆水口城土塁 |
◆しっかりした高さの土塁が残る |
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【解説】 大田原氏前進の城と言われ、大田原城に移るまでこの地に居たという。 思いのほか土塁が大規模であるのには驚いた。 主郭は半分が残っているが、水田をたどると原形を偲ぶことができる。 横矢も発達しており、往時はかなり機能的な縄張りをしていたと考えられる。 |
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【解説】 水口城のすぐ北に位置する。 かなり破壊されているが、土塁の一部が残る。 規模的には、水口城と同一くらいのものか。 ◆荒井城現状・・田んぼの中に、土塁が一部残る。 |
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【解説】 大田原氏の居城。 近世城郭らしく、土塁が高く見事である。 何しろ、整備されているため、6月30日という時期でも十分見学できた。 遺構は、残念ながら細部は破壊しているものが多い。 しかし、とりわけ光っているのが西麓の”坂下門”である。 巨大な枡形門であり、前面に水堀を配していたようだ。 現在は、”三日月堀”と称して、脇に水溜り状に池が残るが、 現在残っている形が三日月型であって、 かつては虎口を守るために、枡形前面に水堀が張っていたと考えたい。 ) |
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◆主郭内部・・画面中央が主郭北虎口 | |
◆主郭南堀切 |
大田原城外郭線 その1 |
本ホームページでおなじみのお客様、くりや様からの投稿で、 大田原城の外郭線が見つかったとの連絡があった。 (掲示板2009年9月) 夏も終わりの頃で、まだ草が多いが、女房と2人、ちょっと覗きに行ってみるか!と言う事になった。 情報では、光真寺の裏山に遺構がある。 下の写真が、光真寺である。 境内には、歴代大田原氏の墓所がある。 さて、航空写真を見てみよう。 確かに写真では、下記のように大田原城の北方に、台地を横切る堀(→で示す)が、はっきり見える。 ◆国土変遷アーカイブより(1960年代) ◆Yahoo地図より(現代) 実は、この外郭線の存在は、以前から知られていたようだ。 ”関東百城(大多和晃紀著・昭和44年東京史跡めぐりの会刊)”にもちゃんと記載されていた。 『抜粋 ・・・しかしながら戦国時代には、北方の竜頭公園の護国神社、大田原神社の境内の丘も城郭として構えられ、 北方光真寺付近にも空堀跡と思われるものがいくつか認められる点は、 城を考える上に注意しなければならない。・・・・』 今の今まで、全然気付かなかった。 ちゃんと本は読むものである。 光真寺の裏山は広い墓地になっている。 外郭堀は、一部ペット墓地で埋められているものの、 現在も明瞭に遺構が残っていそうだ。 ただ、今はものすごい藪である。 藪を掻き分けると、堀が簡単に見つかり、大きな土橋に出会った。 航空写真右側で示した『虎口』の部分である。 土橋の根元、虎口両脇には土塁(櫓台?)が備え付けられている。 ◆マウスを乗せよう わが細君は、ガールスカウト経験があり、 実は藪コキをなんとも思わない女性だったのだ! 『結構、たのシー!』とか言いながら、私の後を付いてくる。 ちょっと広い道に出てみたら、 夫婦そろって雑草の種が着いて、ジーパンが緑色になっていた。 ◆虎口周辺で嬉しそうな我が細君 ◆この墓地の林向こうに堀がある 堀の最東側は、ペット墓地のはずれに堀の残欠が確認できる。(オレンジ○内) この残欠は、光真寺境内の境界にあたる。 左の航空写真下に写る赤い屋根(大黒天)と、下段写真の赤い屋根は同じ建物である。 光真寺の境界と合わせたかのように、外郭線が一致している事。 そして、その境界線上に、大田原氏の墓地群のある事が、なんとも興味深い。 (聞いたところによると墓地は移転してきたらしいが・・・) まあ、いずれにしても、詳細調査は秋以降だな。 とても、堀の中には入れない。 それにしても、我が細君は意外だった・・・・・・・。 |
大田原城外郭線 その2 2009,12,29 |
■かつて、霊園に潰される前の堀(↓) |
【解説】 土橋。 当外郭のメインイベント遺構。 堀の端末が幾分ずれており、食い違いに近い様相を呈す。 虎口内は、両側を幅の広い土塁ではさむ。 内部は枡形門であったような感も否めない。 東の堀の終着。 この先は崖になっているが、 この崖端まで深い堀が続いている。 東の堀を、下から見上げる。 このような緩い傾斜を堀は下る。 ◆マウスを乗せよう 人の左側が、斜面をゆるりと下る深い堀。 |
◆大田原外郭彩色図 |
これも東の堀底を眺めたところ。 5~6mくらいはあろうか 土橋の西面の堀 少々浅くなるが、立派に残る。 光真寺に降りる最西の堀。 霊園に潰されずにいたら、 さぞ雄大であったろう。 当ホームページのお客様、くりやさんの調査によれば、この堀は間違いなく大田原城の外郭として築かれた。 この一帯の大久保山を崩し、『江戸堀』と称されたらしい。 慶長5年、北の関が原に備え、増築された部分と考えられる場所である。 となると、大田原城の城域はかなり広くなる事になる。 位置(マピオンへのリンク) |
【解説】 大関城は、水田の中に土塁のみを残す。 かつて、水田が堀であったそうだが、 規模は想像できない。 城の内部は畑となり、 南側の土塁は分断されてしまっている。 しかし、城の規模は十分把握できる。 北側土塁部分の虎口は 現在のものでよさそうである。 東、南面方向はいまひとつわからない。 初期・大関氏の城で 古文書にもたくさん登場するらしいが, 近隣に山城の森田城や、 金丸要害があり、 差別化が難しいらしい。 赤い屋根が御堂である。那珂川側から臨んでみた。なんとも言えない日本の原風景である。 中世の頃とあまり変わっていないのではなかろうか。 |
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↑ Cの虎口 | ↑ A部分の堀?跡 | |
↑土塁をB方向に向かって望んでいる | ↑ この城の土塁内部には、石がたくさん埋め込まれている。 | |
大関城航空写真・・国土画像回覧システムより(国土交通省) |
青木要害sk (おおきようがい と読みます)位置 分かりづらいので文中
◆第1回 2008 12月28日 |
【解説1】 青木要害は、ラインの城である。 黒羽地域としては珍しい構造を持つことは、一目瞭然。 ”北の関が原”との関係も浮き沈みする。 何故このような凄い城が、このような場所に存在するのであろうか? ◆主郭南直下、食い違いの土塁 ◆主郭下、なだらかに下る横堀 ◆追跡戦闘車2号とS氏 位置 分かりづらいので、那須町の1/10000の地図を借用させていただく。 図面中央、龍念寺の北の山。標高291mの文字の右横にあたる ・ |
【解説2】 まず、この城の主郭であるが、一応最高所の曲輪であろう。 ただし、内部は自然地形で、とても『居住空間』という言葉は当てはまらない。 有事の際の駐屯場所という感じである。 次に堀の流れを見てみよう。 copyright 2008 masaki 地形図に堀のラインを入れてみると、なんとも奇妙であるが、 とにかく主郭最高所は、 西の尾根続きからの侵入を嫌っていることは間違いない。 堀が、南北に貫かれている。 次に主郭最高所から派生する2本の尾根。 ここには、尾根の北寄り方向のみ堀が配置されている。 堀の規模は主郭より、若干規模が大きい。 一見、尾根に挟まれた谷の中を守るようにも見えるが、 最南端の尾根上にある堀が、谷方向に向いているのがおかしい。 となると、龍念寺辺りが守るべき根古谷であったのか? 非常に疑問に残る所だ。 とにかく、この城は何かの目的のために、 西側と北側から攻めてくる敵を嫌って築かれたのは間違いないようだ。 |
◆ 第2回 2009 1月4日 追跡調査 |
【解説3】 2009年に入った。 2008年末に行った青木要害。 管理人は後述の理由で、再調査を行った。 今回、城の主要部分で見直した場所は赤線で囲んだ所だ。 主郭(?)回りの堀を見てみる。 右図のBは堀の中に張り出しをつけ、食い違い構造にしている。 また、北側の堀には主郭方面に上がる道Aも見られる。 つまり、これらの堀の中は、人の移動のために使った事が考えられる。 堀に潜んで、山を上がってくる敵に備えたと考えられるのである。 |
さて、この城を俯瞰してみると、二つの尾根の大きな空堀の存在は、とても大きい。 私は、この城はやはり北からの敵の侵入をかなり重視していると思う。 しかしながら、本城だけで北の守りは万全なのだろうか? 疑問① 北に対する警戒は、この要害部分だけなのだろうか・・・・? さて、目を転じよう。 堀のある二つの尾根に挟まれた谷Dが見て取れる。 通常であれば、栃木市・不魔城のように、ここに根古谷(城下)が設けられる。 当城では、確かに谷中にいくつかの削平地が認められる。 しかし、Dの南には、なぜかEの堀があって、 谷の中を完全に守ろう・大切にしようと言う意図が見受けられない。 また、さらにその南のC部分では、龍念寺の方に堀が構えられず、 フリーな状態になっているのが観察される。 つまり、 疑問② 龍念寺側の最も南側の谷が、 この城の守るべき方向だったと考えるべきなのか? 龍念寺の谷が最も大切な部分、守るべき所だったのであろうか? |
そうなると、疑問①②から怪しく見えて来たのが青木要害のまわりの地形である。 改めて地形図に目を落としてみよう。 青木要害の北には、長い尾根あが北東に延びている。 北を警戒するのであれば、 この尾根を放っておくはずがない! また、龍念寺の南には東西に伸びる舌状台地いがある。 寺の谷を守るのであれば、 この舌状台地にも加工が必要である。 確かめる 必要がある・・・・・。 今回の再調査は、実はこの確かめ算のためだった。 |
年初の法事でお忙しい中、龍念寺の御住職にお話を伺うことができた。 このまわりで、城跡と伝えられているのは、ここ青木要害以外では無いということである。 青木(おおき)の殿様はこの城を拠点に、この地を治めていたという。 しかし、城郭ファンたるもの、この一言で食い下がるわけには行かない。 乱入のお断りをして、さらにあ、いの探索に向かうことにした。 |
まず向かったのが、いの舌状台地である。 この地図には記載されていないが、1/25000の地図には、舌状台地を横切る道が描かれている。 左の図面が調査結果である。 道は空堀状となり、人工的に削りだされている。 捕らえ方によると、台地南を東西に走る空堀のようにに見えなくもない。 しかし、青木要害部分と異なり、上部とのつながりが見出せない。 結果、私の出した結論は これは道であり、城の遺構としては認められそうも無い物である。 |
さらに、筆者はあの尾根へ取り付いた。 ちょっと人目が気になるが、牧草地から尾根に侵入させて頂いた。 (右の写真は牧草地から麓の眺め。) ここ丘陵上に、東西に走る空堀が認められれば、大発見となる。 青木要害部分も含め、大きな3本の空堀が、青木地域の谷の北方を警戒している事実が立証されれば、おのずと誰がこの城を築いたかが分かるかもしれない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ しかし、期待は大いに外れた。 何もない。 見事なまでに、何も無いのである。 |
一応、調査した場所を記す。 ×印は調査したが遺構の発見できなかった場所である。 結果的に、ここ青木要害のみが、明確な遺構を残す城となった。 なぜ、青木の谷の少し奥まったところに、このようなラインの城を築く必要があったのだろうか? また、この地方では”●●城”といわず『●●要害』と冠が付くものが多い。 なぜだろう?? 臨時的なものだからか?それとも他に何か理由があるのか? 少なくとも、青木要害は恒常的な城構えとは言い難い。 大きな謎を秘めたラインの城、青木要害。 誰が、何の目的でこの城を築いたか・・・ それは、もう少しこの回りの『要害』を観察してみないと明確にはなりそうもない。 青木要害(完) |
旧跡名所・佐久山城 第1回 |
◆今回は主郭部のみ |
【解説】 佐久山城は、那須氏の分家、佐久山氏が作った。 同族の福原氏に攻められ、佐久山氏は追われ、落城した。 その後、再び福原氏に使われ、明治維新まで存続した。 佐久山城主郭西には巨大土塁がある。 土塁には、このような登り道が作られている。 桜の季節はとうに過ぎたが、 なんとも穏やかな主郭跡である。 佐久山城は市民の憩いの場であり、名所でもある。 春は桜、 そして秋の”いろはもみじ”の紅葉は、お祭りになるほど有名。 (秋の紅葉) (秋の紅葉) さて、 主郭南の土塁部分。 枡形門であろうか? 妙に土塁をゆがめている。 |
被災地・ 佐久山城 第3回 2011/05/02 |
本日は、ゴールデンウィーク真っ只中! 二輪草の咲きほこる、御殿山公園に駐車。 すっかり春らしくなった御殿山公園である。 気分は のほほん である。 ◆佐久山城彩色図 現在の御殿山公園谷戸は、水が豊富である。 谷内から本丸を望む ただ、震災の爪痕が目立つ。 本丸の神社の鳥居はこのとおり。 2の丸には地割れが・・・・・・・・・・・・・・・・。 まったく、恐ろしい。 気を取り直し、今日の御題である2の丸周辺の調査へ。 見事であるが、いまひとつ納得のいかない空堀が残る。 この堀群が良くわからない。 尾根を潰しているように見えるのだが、 なんとも中途半端。 これは、全くの想像なのであるが、 この堀群の役目が、 尾根を潰す事であるとするならば、 左図●のように、堀が続いていたとは 考えられないだろうか? 更にその先(今は市営住宅)にも 堀が存在していた可能性もある。 とにかく、 このあたりは公園の造成で 潰されていると考えた方が良さそうだ。 |
さて、福原氏の菩提寺、実相院へ。 この山門は、近世の遺物。県の重要文化財で、石瓦が有名である。 寺には福原氏歴代の墓が残るという事で、早速向かってみる この高台が、その墓所であるが。。。。。 あれ!? もう、何が何だか。 これでは、福原氏がかわいそうだ。 (完) |